Flash王国の興亡
25年動いた青いプラグインと、消えたWebの記憶
この記事は、Adobe Flash Player(以下「Flash」)というプラグインソフトの誕生から終焉までの実話に基づきます。年月日・人名・統計数値・引用は実在の資料・報道・公式発表に拠っていますが、語り口は「歴史書を装ったブラックコメディ」です。事実とフィクション的修辞をご了承のうえお読みください。
ペン入力機の余り物として、王国は生まれた
王国の起源は、まだ Web に動画もアニメも存在しなかった 1990 年代前半に遡る。
カリフォルニア州サンディエゴの小さな会社 FutureWave Software に、ジョナサン・ゲイ(Jonathan Gay)という若いプログラマがいた。彼が書いていたのは、ペン入力タブレットで絵を描くためのソフト「SmartSketch」。ところが、肝心のタブレット端末(PenPoint OS 機、GO Corporation 製)が市場で受け入れられず、ソフトだけが残された。
ゲイは、このお絵描きソフトを Web ブラウザで再生できるアニメ作成ツールに作り変えた。1996 年 5 月、製品名「FutureSplash Animator」として発表、同年 8 月 19 日に出荷。
翌月、Microsoft の MSN と Disney がこれを採用したという話が業界に伝わる。それを聞きつけた Macromedia 社が、1996 年 12 月、FutureWave をまるごと買収。製品名は「Macromedia Flash 1.0」と改められ、ゲイは Macromedia の Flash エンジニアリング部門のトップに据えられた。
ペン入力機の余り物が、世界中の Web で動く王国の礎になった。
黄金期 ― 日本の Web が、青い歯車で踊った
王国がもっとも華やかに咲いたのは、日本だった。
1990 年代末、ADSL(電話線を使った高速インターネット)が普及し、ようやく動画が配信できる帯域が一般家庭にも届く。だが、当時の Web ブラウザは動画再生機能を内蔵していない。そこに、Flash が滑り込んだ。
2002 年には、Flash 制作者と視聴者が年末に集う「紅白 FLASH 合戦」がインターネット上で開催された(第 1 回は 2002 年 12 月、投票総数 2,750 票)。「ドラえもんの最終回」をテーマにした感動系 Flash、政治風刺、お笑いネタ、音楽 PV 風アニメ。テレビ局でも広告代理店でもない、無名の個人が作ったアニメが、何百万回と再生された時代だった。
短い春の終わりは、2005 年に来る。「のまネコ問題」――2 ちゃんねる発祥のキャラクターを音楽レーベルが商品化したことをめぐる炎上騒動――を境に、黄金期の純朴な空気は薄れていく。同時期に YouTube が台頭し、動画の主役は .swf から汎用フォーマットへと移り始めていた。
その同じ年、王国は太平洋の向こうでも持ち主を変えていた。米国では、Adobe が Macromedia を株式交換 34 億ドル相当で買収すると発表(2005 年 4 月 18 日発表、12 月 3 日完了)。Flash は、お絵描きソフトの会社の手を離れ、PDF を作る大企業の傘下に入った。
ジョブズの手紙 ― 「これは、あなたたちの問題だ」
王国の凋落は、誰もが憎んだセキュリティホールから始まったのではない。1 通の公開書簡から始まった。
2010 年 4 月 29 日、Apple の最高経営責任者スティーブ・ジョブズが、自社のサイトに「Thoughts on Flash(Flash についての考察)」と題する文章を発表する。1,700 語ほどの短い文章だった。
3 年前の 2007 年 6 月に発売された初代 iPhone は、最初から Flash を搭載しなかった。ジョブズの手紙は、その方針の事後正当化でもあったが、業界に与えた衝撃は大きかった。世界の Web デザイナーは「もう iPhone で見られないものは作るな」という暗黙の了解に従い始める。
翌 2011 年 11 月、Adobe は「モバイル版 Flash の開発を中止する」と発表。スマホでの王国は、生まれる前に滅んだ。
猶予は3年半、しかし誰も動かない
2017 年 7 月 25 日、Adobe は「Flash Player の EOL を 2020 年 12 月 31 日とする」と公式に予告した。
予告から終了まで、約 3 年半。これは、世界中の Web 担当者と業務システム責任者に、コンテンツを HTML5 などへ移行させるためにアドビ社が用意した「ゆるやかな引退式」だった。
ところが現実には、その猶予を多くの組織が使いきれなかった。
日本では、教育・行政・金融など現場での依存が深かった。数研出版の数学デジタル教材「Studyaid D.B.」、東京書籍の指導者用デジタル教科書――いずれも Flash で動いていた教材は更新版を案内する事態となった。eラーニング教材、社員研修コンテンツ、自治体サイトの動画解説、銀行のオンライン取引画面の一部、企業の会社案内ページ。どれも、ファイルの中身が動画ではなく .swf という Flash 形式に変換されていた。
Flash で書かれた教材は、Flash でしか再生できない。HTML5 への変換は、ほぼ作り直しに等しかった。猶予の3年半を、多くの組織は「まだ先のこと」と先送りにした。
ブロックの夜、大連駅は止まった
サポート終了の日(2020 年 12 月 31 日)は、静かに過ぎた。
問題は、その 12 日後に起きた。
2021 年 1 月 12 日、Adobe は Flash Player に「コンテンツ実行をブロックする」更新を配信する。世界中で、青い歯車が一斉に止まった。
中国遼寧省、大連駅。発車案内システムが、表示できなくなった。乗務管理システムが、Flash で書かれていたのである。
事態を把握した技術部門は、その夜のうちに正規流通から外れた Flash の旧バージョンを入手し、最新の Windows 上で動くよう改造して、システムを復旧させた(GIGAZINE 2021 年 1 月 25 日報)。世界最大の鉄道大国の駅員が、ライセンスの保証なきプラグインで業務を再開する。Flash 王国の終焉を象徴する夜だった。
2021 年 1 月 26 日、Mozilla Firefox はバージョン 85 で Flash 対応を完全に削除する。Apple の Safari 14(2020 年秋の macOS Big Sur 同梱版)はそれより前に対応を切っていた。25 年動き続けた青い歯車は、世界中のブラウザから抜き取られた。
中国市場は、王国を保存することにした
王国は、ある地方で、生き延びた。
世界が Flash を捨てた一方で、中国市場では Adobe ライセンスの形で「中国限定の Flash」が配布され続けている。国家の方針というより、市場全体の慣性として、「使い続ける」ほうが「捨てる」より安かった、という結果である。
家庭で Flash は死に、企業の中で Flash は今も静かに生きている。
王国の年代記
何が消えたかは、誰も完全には数えていない
サポート終了で消えたのは、ソフトの 1 種類ではない。
紅白 FLASH 合戦に出展された数千本の作品。のまネコ騒動以前の、罪のない 2ch 発フラッシュ。個人サイトに 20 年眠り続け、誰のサーバーにも保存されていなかった .swf ファイル。九九を覚えるための Flash 教材、地方銀行の「ご利用ガイド」、市役所の防災ページの動画解説、会社案内サイトのトップでロゴが踊るオープニングアニメ。具体的な作品としての固有名はもう辿れないほど、無数に存在していた。
これらが置かれていたサーバーが消えたわけではない。.swf ファイルは、今もどこかのハードディスクに残っている。ただ、それを再生するソフトが、合法的にはもう手に入らない。
「Internet Archive」を中心に、Flash 作品をエミュレータ(Ruffle: ソフトウェアによる Flash 再現プログラム)で再生する保存運動が続いている。だが、再生できる作品は限られる。
文化遺産は、保存しようとした人がいた範囲だけ残る。それ以外は、ある日のブラウザ更新で、静かに失われる。
誰が悪かったかという話ではなかった
Flash 王国の終焉を「Apple がやった」「Adobe が遅かった」「セキュリティが脆弱だった」と、誰か 1 人を悪者にすると、25 年の話はうまく収まる。だが、収めた瞬間に見えなくなるものがある。
王国を作ったのは、動画も再生できない当時のブラウザだった。HTML 自身が動画を再生できれば、Flash は要らなかった。Flash は、Web 標準の不足を埋めるために必要とされ、その役目を 25 年果たした。
王国を延命させたのは、現場の Web 担当者と業務システム責任者だけではない。「いま動いているものを止めて、見た目が同じものを作り直すために予算を取る」という決裁を、経営層も発注側も誰も切り出さなかった。動いているものに金をかける合理的な理由は、それが止まったあとにしか生まれない。
王国を看取ったのも、結局は同じ慣性だった。中国市場では Adobe ライセンス契約の形で配布が続き、各国の企業は HARMAN の延長サポートを契約し、大連駅は旧バージョンを改造してその夜のうちに業務を再開した。
それぞれの場所での判断は、それぞれの場所では正しかった。正しい判断が積み重なった結果として、王国は予告から3年半経っても多くが残り、ブロック当日になってようやく止まる。組織の惰性は、悪意ではない。一つひとつは合理的だった判断の、積み残しでできている。
青い歯車は、止まった
Flash は終わった。
Web の動画は、ブラウザに内蔵された HTML5 の <video> タグに置き換わった。アニメは軽量フォーマット(Lottie)や CSS の機能で代替され、ゲームや 3D 表現はブラウザ内描画の標準(WebGL/Canvas API)で書かれるようになった。動画配信は YouTube と HTML5 動画タグに集約された。Flash が果たしていた役割は、いくつもの Web 標準に分解されて、ブラウザの中に組み込まれた。
それは、よいことだった。ジョブズの手紙が予告したとおり、Web は速く、軽く、安全になり、バッテリーも長持ちするようになった。
ただ、25 年間に蓄積されたコンテンツは、その移行に追いつかなかった。「ドラえもんの最終回」の Flash も、「ご当地の市役所の防災動画」も、「九九のアニメ」も、いまの Web ブラウザでは標準的には再生できない。
王国は滅び、王国が支えていた市井の文化と業務の細部は、その都度、現場の判断で「再構築する」「見なかったことにする」「ライセンス外の延命を黙認する」のいずれかが選ばれている。
このどれが正解かを、誰も決めていない。