パスワード定期交代制の王国
90日ごとの儀式と、誰も気づかなかった不条理
本記事は、日本のIT業界・企業・行政において長年にわたって運用されてきた「パスワード定期変更慣習」の歴史を、実話をもとにブラックコメディ的に語るものです。固有名詞・年号・制度名はすべて実在しますが、語り口は歴史書的フィクションを含みます。
掟の降臨――ベル研究所からの布告
1979年11月、アメリカ計算機学会(ACM)の学術誌に一本の論文が掲載された。
ベル研究所のロバート・H・モリスとケン・トンプソンによる「Password Security: A Case History」である。後者はUnixの共同発明者として知られる人物だ。
論文の趣旨は単純だった。Unix系システムのユーザーが選ぶパスワードのうち、実に86%が短すぎるか辞書に載っている単語だった——という調査報告だ。彼らは「定期的にパスワードを変えれば、万一漏洩しても被害を最小化できる」という考え方を示した。
この一文が、のちに世界中のシステム管理者の「聖典」となる。
当時はまだ、インターネットなど存在しなかった。大型コンピューター(メインフレーム)を複数の研究者が共用する時代だ。パスワードが漏れるとすれば、「同僚が盗み見た」か「紙にメモして捨てた」ケースである。その文脈で「定期変更」はそれなりに合理的な対策だった。
しかし時代は変わる。慣習は変わらなかった。
帝国の門番――Windowsが定期変更を全国に届けた日
1990年代、パーソナルコンピューターが企業に普及し始めると、マイクロソフト社のWindows NTシリーズが「社内ネットワークの標準」となっていった。
Windows 2000が登場した2000年ごろ、企業の情報システム担当者たちはActive Directory(アクティブ・ディレクトリ)と呼ばれる仕組みを使い、社員のアカウントを一元管理するようになった。
このシステムには、あらかじめパスワード有効期限の設定が組み込まれていた。デフォルト設定は「42日」だ。
システム管理者たちは、このデフォルト値を疑わなかった。疑う理由がなかった。「マイクロソフトが決めた値だから正しい」と解釈するのは自然なことでもあった。
こうして42日→60日→90日と、各社が独自の「定期変更ポリシー」を組み込み始めた。特に根拠はなかった。「セキュリティのため」という大義名分があれば、それ以上の説明は不要だった。
日本企業の情報システム部門に、ひとつの文化が定着した。「90日ごとにパスワードを変えよ」という掟だ。
カード聖典の布告――PCI DSSと90日の法制化
2004年12月、クレジットカード業界が動いた。
VISA、Mastercard、American Expressら大手カードブランドが共同で「PCI DSS(Payment Card Industry Data Security Standard=支払カード業界データセキュリティ基準)」という規格を策定した。カード情報を扱う全事業者に対し、準拠を求めるものだ。
この聖典の中に、明確な一文が書かれていた。「パスワードは少なくとも90日に1回変更すること」
根拠は示されていなかった。が、「国際的な認証基準がそう言っている」という事実が、日本企業にとっては十分な理由だった。監査が来る。証跡を見せろと言われる。「90日以内に変更した記録」がなければ指摘事項になる。
かくして90日という数字は、「セキュリティポリシー」のひな型として日本中に広まった。カード業者でなくても「うちも90日にしよう」と追随する企業が続出した。なぜ90日なのか、誰も説明できなかったが、それを問う者もいなかった。
ISMS聖印の大流行
2000年代前半、日本企業のもうひとつの流行が加速した。ISO 27001(ISMS:情報セキュリティマネジメントシステム)の認証取得ブームだ。
取引先から「ISMS取得済みですか」と聞かれるようになり、大企業から中堅企業へ、中堅から中小へと、認証取得の波が広がった。
認証審査の過程で、コンサルタントたちは「パスワードの定期変更ポリシーはありますか?」と尋ねた。なければ作れと指導した。
かくして「パスワードは3か月ごとに変更する」という一文が、全国数万社の社内規程に刻まれた。
研究者たちの叛乱
だが、2000年代に入ると、あちこちで異議が噴出し始めた。マイクロソフトリサーチのCormac Herley(コーマック・ハーリー)らや、大学の研究チームが「強制的なパスワード変更は、セキュリティを高めるどころか弱める」という調査結果を次々と発表した。
なかでも2010年のノースカロライナ大学の研究は衝撃的だった。ユーザーがパスワードを変更する際のパターンを分析すると、41%のアカウントで「変更後のパスワード」が3秒以内に予測できてしまったのだ。
理由は人間の行動にあった。90日ごとに変更を強制されたユーザーは、次のような行動をとる。「Sakura2024」→「Sakura2025」など、末尾の数字を増やすだけ。同じパスワードに戻れないよう「過去8回使用禁止」ルールを課されると、「Mountain1!」「Mountain2!」と連番にする。覚えられなくなり、付箋でモニターに貼る。変更を忘れてアカウントがロックされ、ヘルプデスクに電話する。
定期変更を義務付けることで、ユーザーは「強いパスワード」を諦め「変えやすいパスワード」に移行していった。これは攻撃者にとって、むしろ好都合な状況だった。
2016年には米連邦取引委員会(FTC)の主席技術者ロリー・クラナー(Lorrie Faith Cranor)が「定期変更を再考する時が来た」とFTC公式ブログで発信し、議論はいよいよ政策レベルに達した。
しかし、現場はまったく変わらなかった。「セキュリティ研究者がそう言っている」より、「ISO審査員がそう言っている」のほうが、社内では圧倒的に重かった。
NIST勅令――2017年の方針転換
2017年6月、アメリカの国立標準技術研究所(NIST)が動いた。
NIST Special Publication 800-63B「デジタルアイデンティティガイドライン」の改訂版に、こう明記された。
約40年ぶりに、国際標準が「定期変更不要」へと転換した瞬間だった。
理由は研究成果の集積そのものだった。定期変更が推奨されていた時代と、現代の脅威モデルは根本的に異なる。今日のリスクは「同僚の盗み見」ではなく「データベース丸ごとの漏洩」だ。その場合、パスワードを毎月変えても、漏洩した瞬間に無意味になる。むしろ「他サービスで同じパスワードを使い回さない」「長いパスフレーズを使う」「多要素認証を導入する」のほうがはるかに効果的だ——という結論だった。
総務省の追随と日本の現在地
2017年11月、すでに日本でも動きがあった。総務省の「国民のための情報セキュリティサイト」に「定期的な変更は不要」という文言が追加された。
そして2018年3月、総務省は公式に方針を転換した。
内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)のガイドラインも追随した。
しかし、日本企業の現場は沈黙した。
90日ごとのパスワード変更画面が、今日もどこかの会社のPCに表示されている。情報システム部門は「社内規程をすぐに変えるのは難しい」と言う。監査対応のため「ポリシー上は定期変更を維持している」という会社も多い。PCI DSS v4.0でさえ、多要素認証(MFA)を導入していない場合には90日変更が依然として残っている。
掟は生きている。
パスワード定期交代制の年代記
掟はなぜ残るのか
この物語の本質は、技術の問題ではない。
「正しいことがわかった」と「変える」の間には、組織という名の海峡がある。
セキュリティポリシーを変えるには、稟議を通し、役員の承認を得て、全社員に周知し、監査対応の証跡を更新しなければならない。その手間と「今のままでいい」というリスクを天秤にかけたとき、多くの担当者は現状維持を選ぶ。
責められるとすれば、それは担当者ではなく構造だ。「なぜ変えないのか」を問う上司がいない。「変えた場合のリスクゼロ証明」を求められる文化がある。「監査が通っているから今のままでいい」という組織防衛本能が働く。
1979年にベル研究所で書かれた一文は、インターネットが誕生する前の話だ。しかし、その精神だけは令和の職場でも生き続けている。
「90日が来た。パスワードを変えよ。」
これはセキュリティではなく、もはや儀式だ。
王国は知っている。この儀式に意味がないことを。
それでも、今日も画面に通知が表示される。
パスワード、交代。
—— 儀式 完了
Robert Morris & Ken Thompson, “Password Security: A Case History,” Communications of the ACM, Vol.22 No.11, November 1979
NIST Special Publication 800-63B “Digital Identity Guidelines: Authentication and Lifecycle Management”(2017年6月初版 / 2024年8月Rev.4最終版)
総務省「国民のための情報セキュリティサイト」パスワードの管理に関する指針(2018年3月改訂)
内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)「インターネットの安全・安心ハンドブック」Ver.5.00
PCI Security Standards Council, “Payment Card Industry Data Security Standard v4.0″(2022年3月)
Lorrie Faith Cranor, “Time to Rethink Mandatory Password Changes,” FTC Tech at the FTC blog, March 2016
Yinqian Zhang et al., “The Security of Modern Password Expiration: An Algorithmic Framework and Empirical Analysis,” University of North Carolina at Chapel Hill, ACM CCS 2010
Microsoft Learn, “アカウント ポリシー ‐ パスワード ポリシーの設定”(Windows 2000 Security Hardening Guide)