ISDN王国の興亡
情報処理王国史 外典第五十四巻
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ISDN王国の興亡

「夜11時の接続儀式」から始まった、日本最大の通信王国が消えるまで

ISDN INS NET

1988年、NTTは「デジタル電話」の夢を売り出した。名をINSネット——のちに日本を世界最大のISDN市場へと押し上げる通信規格だ。

テレホーダイの深夜11時、全国でターミナルアダプタのランプが一斉に灯り、日本のインターネット文化が花開いた。ピーク時には1000万回線。誰もが「最先端」と信じていた。

だが2001年、ADSLが来た。家庭からISDNは消えたが——業務システムの奥底に、誰にも気づかれないまま生き残っていた。2024年、終了通知が届いて初めて「うちの会社もISDNを使っていた」と気づいた担当者が、全国に続出した。

この記事について
本記事は実際の技術的・社会的背景に基づいたブラックコメディ仕立ての読み物です。引用・参照はすべて実在の文献・発言・報道に基づきますが、語り口はフィクション的表現を含みます。
SYNOPSIS / あらすじ
1988年、日本に「デジタル電話」の夢を謳った通信規格ISDNが誕生した。NTTの全国整備とテレホーダイの聖火に煽られ、この王国は世界最大の1000万回線を誇るまでに膨張した。しかし2001年、ADSLの黒船が来た。家庭からは一夜にして去ったが、業務インフラの地層に深く潜り込んだISDNは、誰にも気づかれないまま動き続けた。そして2024年——「うちの会社がISDNを使っていたと気づいたのは終了通知が来てからでした」という告白が、日本中のIT部門から聞こえてきた。2028年12月31日、王国は静かに幕を閉じる。
CH.01

建国宣言:「デジタル電話」の夢

1.1 1988年4月19日、世界初の商用ISDN

西暦1988年4月19日。日本に、新しい王国が誕生した。

名をINSネット、と言う。

NTTが鳴り物入りで開始したこのサービスは、電話回線をデジタル化し、音声・データ・FAXを一本の回線でまとめて送受信できる夢の通信網だった。正式名称は「ISDN(Integrated Services Digital Network)」——統合サービスデジタル網、という勇ましい名前が付けられた。

当時のパソコン通信やデータ通信は、アナログ電話回線を介したモデムが主流だった。最速でも28.8kbps、接続は「ピー、ガガガ……」という馴染み深い騒音で始まった。

ISDNは違った。64kbps(2チャネル合わせると最大128kbps)のデジタル接続。接続音はなく、瞬時につながる。電話と同時にデータ通信ができる。これは1988年のスペックとしては、革命的だった。

1.2 4年間の試験運用という「準備の国」

実はこの商用開始の前から、日本は着々と準備を重ねていた。1984年には東京・三鷹市と武蔵野市を対象エリアとして「INSモデルシステム」の実用化試験が始まっており、NTTは民営化直後から次世代通信の主導権を握ることに熱心だった。

しかし、ここは日本だった。革命は、ゆっくりと始まった。

【用語解説】ISDN(アイエスディーエヌ)
Integrated Services Digital Networkの略。1本の電話回線を「デジタル化」し、音声・データ・FAXを同時に使えるようにした通信方式。家庭・企業向けの「INSネット64」(64kbpsのBチャネルを2本持つ)と、大規模企業向けの「INSネット1500」(1.5Mbps)の2種類があった。ISDNに接続するためには「ターミナルアダプタ(TA)」という専用機器が必要で、これがしばらくの間、普及の壁になった。

CH.02

膨張:テレホーダイという「聖火」

2.1 1995年——深夜に灯った定額の炎

1995年夏。王国に、聖火が灯った。

その名を「テレホーダイ」という。NTTが開始した、深夜・早朝(午後11時〜翌午前8時)の市内通話定額サービスだ。これにより、夜の時間帯は電話代を気にせずインターネットに接続できるようになった。

同年12月、低価格のターミナルアダプタ「MN128」(NTT-TE東京とBUGが共同開発)が39,800円で発売され、それまで7〜8万円台だったISDN接続機器の価格が大幅に下がった。

そして1996年2月、INSネットでもテレホーダイが利用可能になった。

2.2 毎夜11時の「接続儀式」

その瞬間、日本のインターネット人口が爆発した。

毎夜11時になると、全国の一般家庭でターミナルアダプタのランプが灯り、「接続中」のインジケーターが点滅した。チャット、ニュース、ファイルのダウンロード——深夜のデジタル大航海時代が始まった。ISDNは、この文化の主要インフラだった。

「64kbps、遅い」と感じていた人も、「アナログ28.8kbpsよりはマシだ」と思いながら、夜を徹してFTPコマンドを叩いた。そうして積み上げられた契約数は、2001年頃に1000万件を超えた。

日本は世界最大のISDN市場となった。

他の先進国がISDNをほぼ普及させることなくブロードバンドへ移行していく中、日本だけが誠実に、真剣に、ISDNを使い続けた。この事実を誇らしいと思うか、複雑な気持ちになるかは、読む人次第だ。

【用語解説】ターミナルアダプタ(TA)
ISDNに接続するための専用機器。アナログ電話機やパソコンをISDN回線につなぐための「変換アダプタ」として機能した。「MN128」(1995年12月発売)はその代表製品で、定価39,800円という当時の常識破りの安さでISDN普及の立役者となった。その後1997年6月に登場した後継機「MN128-SOHO」はルーター機能も搭載し、SOHO・家庭向けブロードバンドルーターの先駆けとなった。

CH.03

崩壊の序曲:ADSLという黒船

3.1 2001年、価格破壊の衝撃

2001年。黒船が来た。

Yahoo!BBが開始したADSLサービスは、月額2,467円で最大8Mbpsという価格破壊だった(ISDNの64kbpsに比べ、実測で10〜100倍の速度)。フレッツADSLとの激烈な競争が始まり、ブロードバンドの価格は急落した。

家庭向けISDN回線の解約が始まった。「INSネットを解約してフレッツADSLに変えたら、速度が10倍になって料金が下がった」——そんな体験談がネットに溢れた。2001年以降、家庭向けISDN契約数は減少の一途をたどった。

3.2 根は生きていた——業務インフラへの潜伏

しかし、王国は完全には滅びなかった。

問題は、業務用途だった。

EDI(電子データ交換)、銀行ATM、コンビニのPOSシステム、クレジットカード照合端末(CAT端末)、医療機関のレセプト請求回線、工場の警備端末、ラジオ放送の音声伝送回線——これらのシステムの深部に、ISDNがひっそりと生き続けていた。

インターネット接続という「顔」を失った後も、王国の「根」は、業務インフラの地層に深く張り続けた。

ISDNのディジタル通信モード終了に伴い、企業内WAN、G4 FAX(高精細FAX)、CAT端末、銀行ATM、警備端末、ラジオ放送、レセプトオンライン請求など、複数のシステムで利用状況の確認と回線の変更が必要です。
— 日立ソリューションズ・クリエイト「ISDNが廃止に!2024年問題について解説」(2024年)より要約

CH.04

「ISDN 2024年問題」という静かな恐怖

4.1 「うちはISDNを使っていない」——その確信が崩れた日

2024年1月。NTTは「ディジタル通信モード」の段階的終了を開始した。

「ISDN 2024年問題」という言葉が、IT業界に静かに流通し始めた。しかしその騒ぎ方は、2000年問題(Y2K)の時のような社会的パニックとは程遠かった。

なぜなら、「自分の会社がISDNを使っているかどうか」すら把握できていない担当者が多かったからだ。

30年前に「最先端の通信技術」として鳴り物入りで導入されたISDN回線が、誰も意識しないインフラの地層に埋もれていた。EDIシステムの通信部分、工場の警報回線、医療機関のレセプト請求回線——見えないところで、静かに動き続けていた。

「うちの業務システムがISDNを使っていると気づいたのは、終了の通知が来てからでした」——そんな告白が、ITコミュニティのあちこちで聞かれた。

「本社の業務システムは光回線に移行済みだが、支店はまだISDN回線のままだった」「メインの通信回線は既に光回線に移行済みだが、実は業務システムでISDNを利用していた」という想定外のケースが発生する恐れがあります。
— JBCC株式会社「ISDN回線の終了がもたらす『2024年問題』対策と早急な移行計画の必要性」(2024年)より引用

4.2 終焉のスケジュール

2024年8月31日には新規申込受付が終了した。最終サービス終了は2028年12月31日。かくして王国は、40年の歴史に幕を引くことが、公式に決定した。

【用語解説】EDI(イーディーアイ)
Electronic Data Interchange(電子データ交換)の略。企業間の受発注・請求などのデータを、電話回線を使って自動的にやり取りする仕組み。1980〜90年代から普及し、ISDNの安定した通信品質を活用するシステムが多かった。インターネット経由のEDIへの移行が、ISDN終了問題の核心の一つとなった。

CH.05

なぜ日本だけが、世界最大になったのか

5.1 3つの理由

ここで少し立ち止まって考えたい。なぜ日本だけが世界最大のISDN市場になったのか。

第一の理由は、NTTのインフラ整備能力だ。 1988年の商用開始以来、NTTは着実に日本全国にISDN対応交換局を整備した。整備の速さと安定性は世界水準を超えており、1990年代末には全国ほぼどこでもINSネット64が使えた。

第二の理由は、日本のFAX文化との相性だ。 音声・データ・FAXを一本の回線でまとめて処理できるというISDNのコンセプトは、世界最高水準のFAX普及率を誇る日本の業務文化と相性が抜群だった。

そして第三の理由が、最も皮肉だ。整備が進みすぎたこと——これが次への移行を遅らせた。

5.2 「今動いているものを変える理由がない」という均衡

「今の設備で十分動いている」「移行コストをかける理由がない」——この論理が、業務システムの深部でISDNを温存させ続けた。Excel方眼紙がデジタル庁の指摘を受けてもなかなか消えないのと、まったく同じ構造だ。

技術的には移行可能、コストをかければできる、しかし「今動いているものを変える理由がない」という均衡が、何年も何十年も続く。誰も悪くない。しかし全体として、何かが止まってしまう。


CH.06

王国の年代記

1984年 NTTが三鷹市・武蔵野市でINSモデルシステムの実用化試験を開始
1988年4月19日 NTT「INSネット64」「INSネット1500」の商用サービス開始
1995年夏 テレホーダイ開始(深夜・早朝の市内通話定額制)
1995年12月 低価格ターミナルアダプタ「MN128」(39,800円)発売で個人向け普及加速
1996年2月 INSネットでもテレホーダイが利用可能になり爆発的に普及
2001年頃 INSネット契約数が1000万件を超える(世界最大のISDN市場)
2001年〜 Yahoo!BBのADSL参入で家庭向けISDN解約が加速
2010年代 家庭用途はほぼ消滅、業務用途(EDI・ATM・警備など)に残存し続ける
2024年1月 ディジタル通信モードの段階的終了開始(IP網への移行)
2024年8月31日 INSネットの新規申込受付終了
2028年12月31日 INSネット全サービス終了予定

CH.07

接続の終わり、そして残るもの

7.1 40年後の幕引き

2028年12月31日。INSネットは、すべてのサービスを終了する。

1988年の開業から40年。スタートから換算すれば、ほぼ半世紀にわたって日本のインフラを支えた通信網が、静かに電源を落とす。

パソコン通信の夜、テレホーダイの深夜11時、インターネット黎明期の「ピー……接続中」の儀式——それらすべての記憶を回路に刻みながら、INSネットは消える。

最後まで使い続けた企業のシステム担当者は、終了の通知を受け取り、古いターミナルアダプタの電源を落とし、おそらく何も言わずに席に戻るだろう。

それで、いい。

7.2 次の「ISDN」はどこにいるか

技術は、使われることで価値を持つ。ISDNは、30年以上にわたって使われ続けた。それは誇るべき事実だ。

ただ一つ気になるのは——次の「ISDN」がどこかに潜んでいないか、ということだ。今も誰かの業務システムの深部で、「誰も知らないまま動いている通信回線」が、次の終了通知を静かに待っているかもしれない。

インフラの終わりとは、いつも、そういうものだ。

あなたの会社のシステムに、「誰も把握していない通信回線」は潜んでいませんか?
ISDN終了に限らず、古いVPN・専用線・FAX回線の棚卸しを、この機会にしてみることをお勧めします。

深夜11時。
どこかのサーバー室で、古いターミナルアダプタのランプが、
今日も静かに点滅している。
EDIのデータを送り続け、警備センターへのアラートを通し、
誰にも気づかれず、誰にも感謝されず。
インフラとは、そういうものかもしれない。
見えなくなって初めて、存在していたことに気づく。
―― 接続 維持

参考・引用資料
NTT東日本「INSネットの新規申込受付・提供終了について」(2024年3月)https://www.ntt-east.co.jp/release/detail/20240307_02.html
日立ソリューションズ・クリエイト「ISDNが廃止に!2024年問題について解説」https://www.hitachi-solutions-create.co.jp/column/core-system/isdn-abolition.html
JBCC株式会社「ISDN回線の終了がもたらす『2024年問題』対策と早急な移行計画の必要性」https://www.jbcc.co.jp/blog/column/isdn2024.html
日経XTECH「世界初のISDNサービスが開始」(IT業界年表、2009年)https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090324/327126/
ASCII.jp「MN128-SOHO ルータを個人向けの機器に変えた先駆者」https://ascii.jp/elem/000/000/415/415206/
INSネット – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/INSネット