サマータイム王国の興亡
情報処理王国史 外典第六十八巻
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サマータイム王国の興亡

時計の針を1時間動かすだけ。そのひと言が、国中のシステムを震え上がらせるまで

SUMMER TIME DST
この記事について
この物語は、実在した出来事・人物・発言・報道に基づいています。年号や統計、引用は可能な限り一次資料・報道で裏取りをしていますが、語り口はあくまで「歴史書ふう」の脚色を含みます。特定の人物や組織を貶める意図はありません。むしろ、誰も悪人がいないのに国全体が振り回された、その「調整のむずかしさ」そのものを記録するための一冊です。

「時計を動かすだけだから、お金もかからない」――そう聞こえた提案があった。

真夏の選手と観客を、少しでも涼しい時間に。善意から出たそのひと言が、銀行も鉄道も病院も役所も乗っている、この国の無数のコンピュータを一斉にざわつかせた。

これは、文字盤の上では一瞬に見える「針を動かす」という指示が、その裏側ではどれほどの重さを持つのか――誰も悪くないまま、国全体が振り回された、ひと夏の物語である。

CH.01

ある夏の、軽い思いつき

2018年の夏は、記録的な猛暑だった。

その7月下旬、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗(もり・よしろう)会長が、安倍晋三(あべ・しんぞう)首相に対し、ある提案を持ちかけたと報じられた。2020年の東京大会で、真夏の競技を少しでも涼しい時間に行うために、国全体の時計を進めよう――いわゆる「サマータイム」の導入である。

案は具体的だった。2019年と2020年の2年間限定で、夏のあいだ時計の針を2時間早める。たとえばマラソンのスタートを、午前7時から午前5時へ。朝の涼しいうちに走らせ、観客も選手も酷暑を避けられる。聞こえはいい。時計を動かすだけなら、お金もかからない。そう思われた。

ここが、王国の物語の始まりである。「時計を動かすだけ」という、たった一行の発想。それが、この国に張りめぐらされた無数のコンピュータシステムにとって、どれほどの重みを持つ言葉なのか――提案した側は、まだ知らなかった。

【用語解説】サマータイム(夏時間制 / DST)
「DST」は Daylight Saving Time の略で、日本語では「夏時間制」「日光節約時間」などと訳される。夏のあいだだけ標準時を1〜2時間進め、明るい時間帯を有効に使おうという制度。欧米の多くの国で採用されている。日本語では和製英語ふうに「サマータイム」と呼ぶのが一般的で、本稿でもこの呼び名を使う。

CH.02

70年前にも、針は動いた

実は、日本がサマータイムを試すのは、これが初めてではなかった。

戦後まもない1948年、日本は「夏時刻法」という法律のもとでサマータイムを導入している。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導によるものという説が定説で、毎年5月の第1土曜から9月の第2土曜まで、時計を1時間早めた。

【用語解説】GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)
第二次世界大戦の敗戦後、1945年から1952年まで日本を占領・統治した連合国側の機関。略称のGHQは General Headquarters(総司令部)から。この時期の制度の多くは、占領下という特殊な事情のもとで導入された。

ところが、この制度はわずか約4年で姿を消す。1952年4月11日、「夏時刻法を廃止する法律」が成立し、サマータイムは終わった。占領が終わるのとほぼ同じ時期だった。

なぜ嫌われたのか。当時の世論調査では「やめたほうがよい」が53%、「続けたほうがよい」が30%。理由は素朴で、しかし本質的だった。役所の出勤が1時間早まったことで、もともと早い民間勤め人の通勤時間と重なり、朝のラッシュがさらにひどくなった。農業など太陽の動きに合わせて働く人には、人為的に針を進める意味がわからなかった。そして何より――「定時で帰れるはずが、明るいうちは仕事が続く」。針を早めたぶんだけ、労働時間が延びてしまったのである。

針を1時間動かすことは、暮らしのリズムを丸ごと動かすことだった。70年前の日本人は、それを身をもって学んでいた。


CH.03

時計を一つ動かすと、いくつのシステムが動くのか

2018年。70年前と決定的に違っていたのは、この国がコンピュータの上に乗っていたことだ。

銀行のATM(現金自動預け払い機)、鉄道の運行管理、工場の生産ライン、病院の電子カルテ、コンビニのレジ、役所の各種システム、企業の勤怠管理――そのすべてが「時刻」を前提に動いている。サマータイムを導入するとは、これら無数のシステムに「夏のあいだだけ、ある日を境に時計が2時間飛ぶ」と教え込む作業を意味した。しかも2年限定なら、入れた仕掛けを2年後にまた取り外さなければならない。

情報セキュリティに詳しい立命館大学の上原哲太郎(うえはら・てつたろう)教授は、この点を早くから指摘した識者の一人だった。

サマータイム導入には数多くのシステムの改修が必要で、残り2年弱ではとても間に合わない。
— 上原哲太郎教授(立命館大学)、2018年9月のシンポジウムでの発言を各報道より要約

問題は時計の表示だけではない。「同じ時刻が1日に2回現れる」「存在しない時刻が生まれる」といった事態に、過去の記録の集計や、時刻をまたぐ処理がどう反応するか。ひとつひとつ検証し、テストし直さなければならない。それは「設定を変える」ような軽い作業ではなく、国中のシステムをもう一度点検する、という規模の話だった。


CH.04

エンジニアたちの悲鳴

提案が報じられると、現場から声が上がった。とりわけ、実際に手を動かす情報技術(IT)の技術者たちの反応は切実だった。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス。交流サイト)上には、「ただでさえ人手が足りないのに、2年で全システムを直せというのか」「日本政府はエンジニアを絶滅させたいのか」といった悲鳴に近い投稿が相次いだ。決して大げさな冗談ではなかった。多くの技術者が、限られた人数で、限られた時間のなかで、すでに動いているシステムを支えていたからだ。

業界団体も動いた。日本IT団体連盟は、導入に反対の立場を明確にした。

日本のIT人材は不足している。その貴重な人材を、2年限りのサマータイム対応という後ろ向きの作業に費やすべきではなく、もっと前向きなイノベーションに振り向けるべきだ。
— 日本IT団体連盟・別所直哉(べっしょ・なおや)政策委員会委員長の主張を各報道より要約

ここには、深い皮肉があった。サマータイムは本来、「明るい時間を有効に使い、暮らしを豊かにしよう」という前向きな制度のはずだった。ところがそれを実現するために、国でいちばん足りていない人材を、2年で消える仕掛けづくりに丸ごと注ぎ込むことになる。豊かさのための制度が、最も貴重な資源をすり減らす――そういう構図だった。

あなたの会社でも、「ちょっと直すだけ」と頼んだ作業が、現場では何日もの残業になっていた――そんな経験はないでしょうか。


CH.05

動かされるのは、時計だけではなかった

懸念はシステムだけにとどまらなかった。人間の体そのものへの影響を、専門家が正面から警告した。

2018年11月7日、日本学術会議は「サマータイム導入の問題点:健康科学からの警鐘」と題する提言を公表する。日本を代表する科学者たちの組織が、健康の観点からはっきりと懸念を示したのである。

時刻を人為的に切り替えることは、睡眠や体内時計に負担を与え、健康への影響が懸念される。導入には慎重であるべきだ。
— 日本学術会議「サマータイム導入の問題点:健康科学からの警鐘」(2018年11月7日)より要旨

針を2時間動かすことは、国民全員の生活リズムを、ある日を境に強制的にずらすことを意味する。70年前に人々が肌で感じた「なんとなく調子が狂う」という感覚に、現代の科学が裏づけを与えた格好だった。システムの専門家と健康の専門家が、別々の入り口から、同じ結論にたどり着いていた――この案は、軽く扱ってよいものではない、と。


CH.06

王国の年代記

1948年 夏時刻法が施行され、日本で初めてサマータイムが導入される(GHQの指導によるとされる)
1952年4月11日 「夏時刻法を廃止する法律」が成立。約4年でサマータイムは終了(占領終了とほぼ同時期)
1952年秋 世論調査で「やめたほうがよい」53%、「続けたほうがよい」30%。労働時間の長期化や通勤ラッシュ悪化が嫌われた背景
2018年7月下旬 東京五輪組織委員会の森喜朗会長が、安倍首相にサマータイム導入を要請したと報じられる
2018年8月 暑さ対策として、2019・2020年の2年間・時計を2時間早める案が浮上。安倍首相が自民党に検討を指示し、賛否が沸騰
2018年9月 上原哲太郎教授ら識者が「2年弱では改修が間に合わない」と相次いで指摘
2018年10月31日 自民党が、関連法案の国会提出を見送り、五輪に合わせたサマータイム導入を正式に断念
2018年11月7日 日本学術会議が「健康科学からの警鐘」と題する提言を公表

CH.07

誰も悪くなかった、という結末

2018年10月31日、自民党は、関連法案を国会に提出しない方針を決めた。広い範囲でシステムの改修が必要となり、2年で実現するのは無理だ、というのが理由だった。サマータイム王国は、建国されることなく幕を閉じた。

振り返ってみれば、この物語に悪人はいない。

提案した人は、真夏の選手と観客を酷暑から守りたかった。善意だった。反対した技術者たちは、現場が壊れることを知っていた。正論だった。警鐘を鳴らした科学者は、国民の健康を案じていた。誠実だった。誰もが自分の持ち場で、まっとうなことを言っていた。

ではなぜ、これほど騒ぎになったのか。原因は、人ではなく「見えなさ」にあった。文字盤の上では、針を動かすのは一瞬だ。けれどその文字盤の裏側には、銀行も鉄道も病院も役所も、数えきれないシステムと、それを徹夜で支える人々が連なっている。提案する側からは、その裏側が見えなかった。見えないものは、軽く見えてしまう。

これは、サマータイムだけの話ではない。「ボタン一つで」「設定を変えるだけで」「フォーマットをそろえるだけで」――そう言われた現場が、静かに膝をつく場面を、わたしたちは何度も見てきた。表からは一行に見える指示が、裏側では何万行もの作業になる。その距離を、誰も悪意なく、ただ知らないまま、踏み越えてしまう。

サマータイム王国がついに建たなかったことは、たぶん、小さな成功例として記憶されてよい。今回は、裏側の人々の声が、針が動く前に届いたのだから。


時計の針は、動かなかった。
国中のサーバーは、いつもの時刻を刻み続けた。
ATMは正しい時間に開き、電車はいつものダイヤで走り、
病院のカルテは、昨日と同じ「今」を記録した。
誰かの善意が、誰かの徹夜になりかけて、
針が動く寸前で、そっと止まった夏があった。
それは、何も起こらなかった、という出来事だった。
何も起こさなかった、という静かな仕事だった。
――標準時、維持

参考・引用資料
日本経済新聞「『サマータイム、間に合わない』 IT識者ら導入反対」(2018年)
日本経済新聞「サマータイム、長所・短所は? システム対応に懸念も」(2018年)
日経クロステック「サマータイム騒動終了、政治家や経営者にITを学ばせる手は」
キャリコネニュース「東京五輪でサマータイム導入か『政府はエンジニアを絶滅させたいの?』反対意見続出」(2018年)
BUZZAP!「『オリンピックに合わせたサマータイム導入』を自民党が正式断念」(2018年10月31日)
日本学術会議「提言 サマータイム導入の問題点:健康科学からの警鐘」(2018年11月7日)
Wikipedia「夏時刻法」
BuzzFeed Japan「70年前の日本で実施されていた『サマータイム』が3年で廃止された理由」