元号王国の興亡
天皇一代ごとに時計を作り直してきた国の、終わらない改修史
この物語は、日本のコンピュータが「元号(年号)」を扱い続けてきたことで、改元のたびに起きてきたシステム対応の混乱を、報道や公的資料にもとづいて再構成したものです。年号・人名・数値・制度名は公開資料で確認していますが、語り口には「王国の歴史書」というフィクションの体裁を含みます。特定の組織や人物をおとしめる意図はありません。むしろ、誰も間違っていないのに、「時の数え方」をめぐる慣習が技術の足を引っ張り続けてきた、その構造を記録するための一冊です。
世界の多くの国は、西暦という一本のものさしで年を数える。だが、この国だけは違った。
天皇が代替わりするたびに、年の数え方そのものを作り直す。昭和は平成になり、平成は令和になった。紙の上では、それは美しい伝統だった。しかしコンピュータにとっては、数十年に一度、突然「ものさし」がすげ替えられる――しかも、いつすげ替わるかは前もって分からない――という、なかなかに過酷な仕様だったのである。
これは、便利な西暦がすぐ隣にあったのに、それでも「元号で年を数える」という慣習を手放せなかった国が、改元のたびに全国のシステムを改修し続けた、終わりのない物語である。
王国の建国
元号という制度は、とても古い。だが「天皇一代につき元号は一つ」という今のかたちが定まったのは、それほど昔ではない。
1868年(明治元年)、明治への改元にあわせて、天皇一代に元号を一つとする「一世一元(いっせいいちげん)の制」が定められた。それ以前は、災害や吉事を理由に同じ天皇の在位中でも何度も改元していたから、これは大きな転換だった。さらに戦後、元号の法的な根拠がいったん失われたため、1979年(昭和54年)6月12日、わずか2か条の短い法律「元号法」が制定され、元号は政令で定めると改めて定められた。
こうして王国は、「年の数え方は、天皇の代替わりとともに変わる」という基本法を手にした。問題は、その代替わりが「いつ来るか分からない」という点にあった。建国の時点では、まだ誰も気づいていなかった。この仕様が、のちにコンピュータを何度も悩ませることになるとは。
昭和64年、七日間の王国
最初の試練は、突然やってきた。
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御した。同じ日のうちに新元号を「平成」とする政令が公布され、翌1月8日から平成元年が始まった。つまり「昭和64年」は、1月1日から1月7日までの、わずか七日間しか存在しなかった幻の年である。
ここで注目すべきは、なぜ「翌日施行」という慌ただしいやり方をとったのか、である。当時の報道では、その理由のひとつとして、ワープロをはじめとする事務機器やコンピュータのプログラム変更に時間を確保するため、と説明された。元号の切り替えに、すでに「機械の都合」が顔を出していたのだ。
そして現場では、日本のコンピュータが初めて経験する「年の問題」が起きた。元号がうまく表示できない。「昭和◯年」と「平成◯年」を取り違える。紙の帳簿なら手で直せばよいが、全国に広がりはじめていたシステムでは、そう簡単にはいかなかった。
なぜ西暦にしなかったのか
ここで素朴な疑問が浮かぶ。改元のたびに苦労するなら、最初から西暦で数えればよかったのではないか。
理屈の上では、その通りである。だが王国には、そうできない事情が積み重なっていた。役所に出す書類は元号で書くのが当たり前で、住民票も、運転免許証も、年金の記録も、元号で年を刻んできた。行政が元号で動く以上、行政とやり取りするシステムも元号に合わせざるをえない。いったん元号で作ってしまえば、後から西暦に直すには莫大な手間がかかる。
しかも、画面や帳票には幅の制約があった。「平成」と二文字書くより、専用の一文字で表せたほうが省スペースになる。そこで多くのシステムが、後述する「元号の合字(一文字に詰めた文字)」や、内部的には年だけを数字で持つ設計を採用した。便利に見えたその選択が、数十年後に効いてくることになる。
文字に閉じ込められた元号
王国の元号は、紙だけでなく「文字コード」の世界にも住み着いていた。
コンピュータは文字を番号で管理している。日本語の文字には早くから、明治・大正・昭和・平成それぞれを一文字に詰め込んだ「合字(ごうじ)」が用意されていた。狭い帳票のマス目に元号を収めるための、いわば専用ハンコのような文字である。これらは行政や企業のシステムで広く使われてきた。
だから2019年(平成31年/令和元年)、新元号「令和」が決まったとき、文字コードの世界もまた動いた。国際的な文字規格を定めるユニコード(Unicode)は、令和の合字「㋿」を新しく追加し、2019年5月7日にユニコード12.1.0として正式に公開した。正式名称は「SQUARE ERA NAME REIWA(四角い元号名・令和)」。たった一文字を世界の文字表に加えるために、国際機関が動いたのである。
ただし、この令和の合字は新しい規格でしか使えず、古くから使われてきた文字コード(シフトJIS)では表現できなかった。新しい一文字は、古いシステムには届かなかったのである。
「令和」前夜の恐怖
王国史上、最も計画的な改元が、最も大きな緊張を生んだ。
2019年(平成31年)4月1日、政府は新元号を「令和」と発表した。施行は5月1日。天皇の生前退位にあわせ、即位より前に新元号を公表したのは、憲政史上はじめてのことだった。そして政府がおよそ一か月前という早さで公表したのには、ねらいがあった。改元までの期間に、全国のシステムを改修してもらうためである。
それでも現場の技術者たちは追い詰められていた。報道では、システム開発の現場から「正式な元号で開発やテストができる日が、いまだに決められないのは恐怖でしかない」という悲鳴が伝えられた。新元号が分からなければ、本番と同じ条件での最終確認ができない。発表から施行まで一か月。その短い窓のあいだに、銀行も、役所も、企業も、いっせいに改修と確認を走らせることになった。
政府は、改修が間に合わなかった場合の備えまで用意した。証明書は訂正印で直す。「平成」と書かれていても有効だと知らせる文書を添える。希望者には新元号の証明書に交換する。電子申請の画面には注意書きを出す――。新しい時代の幕開けの裏で、役所は「間に合わなかったときの言い訳」までマニュアル化していたのである。
元年か、1年か
改元が一段落しても、王国には小さな、しかし根深い混乱が残った。「令和元年」と「令和1年」、どちらが正しいのか問題である。
慣習では、改元した最初の年は「元年」と呼ぶ。法務省の通達でも、初年は「平成元年」とすると示されていた。ところが多くのシステムは、年の欄に数字しか入れられない。すると2019年は、機械の中では「令和1年」になってしまう。人間の世界では「元年」、機械の世界では「1年」。同じ年が、二つの顔を持つことになった。
表計算ソフトでも、設定によっては「令和1年」と表示され、それを「令和元年」に直すための小技が、あちこちで共有された。法律上はどちらでも誤りではない。だが「正式な書類は元年と書くのが無難」という空気だけが残り、現場は二つの表記のあいだで揺れ続けた。
王国の年代記
天皇の代替わりという、めったに来ない出来事のたびに、王国は時計を作り直してきた。その節目を並べると、改元が「行事」であると同時に「システム改修プロジェクト」でもあったことが見えてくる。
まだ終わらない王国
令和の改修が落ち着いても、王国の物語には続きがあった。
2025年は、もし昭和が続いていれば「昭和100年」にあたる年だった。昭和の時代に作られた古いシステムの中には、年を「昭和の下2桁」で記録しているものがある。平成や令和に変わっても、内部では昭和の年として数え続け、表示するときだけ変換しているシステムが残っていた。そうしたシステムにとって、3桁の「100」は想定外だ。100の上の桁が切り捨てられて「00年」と誤認され、帳票や計算が狂うおそれがある――これが「昭和100年問題」、別名2025年問題である。
なぜ、こうも長く尾を引くのか。誰かが手を抜いたからではない。1989年のあのとき、現場は限られた時間で「動くこと」を最優先し、データの作りには手を入れず、表示だけを切り替えた。それは当時として最も合理的な判断だった。次の改元までに直せばいい――そう思った担当者は、とうに退職している。残されたのは、誰も全体像を知らないまま動き続ける、古い時計仕掛けだけだった。