全銀王国の興亡
情報処理王国史 外典第八十三巻

全銀王国の興亡

― 半世紀、平日の昼にしか動かなかった送金インフラの物語 ―

ZENGIN 1973
この記事について
この記事は、日本の銀行送金を半世紀にわたって支えてきた「全銀システム(全国銀行データ通信システム)」の歴史を、史実に基づいて再構成した読み物です。年号・制度名・統計・引用はすべて公表資料に基づいていますが、語り口は「王国の興亡」を描く歴史書ふうのフィクション仕立てを含みます。特定の企業や個人を批判する意図はありません。

金曜の夜、取引先への支払いを済ませようと振込ボタンを押す。相手に届くのは、月曜の朝だという。

世界最速で「即時入金」を実現したはずの送金網が、夜と休日には眠っている。その矛盾を、私たちは45年ものあいだ、当たり前として受け入れてきた。

これは、日本経済の血流を半世紀支えながら、ほとんど誰にも意識されなかった一つのインフラ――全銀システムの物語である。


CH.01

王国の建国 ― 世界に先駆けた送金網

あらすじ:1973年、日本の銀行の裏側に世界最速級の送金網が灯った。生まれた瞬間から「即時入金」を実現していた、その先進性の話。

1.1 1973年、灯った神経網

1973年(昭和48年)4月9日。日本の銀行の裏側に、ひとつの巨大な神経網が灯った。

名を「全国銀行データ通信システム」、通称・全銀システム。日本じゅうの銀行を通信回線でつなぎ、A銀行からB銀行への送金を、コンピュータで自動的に処理する仕組みである。それまで銀行間のお金のやり取りは、書類と電話と人手で数日かけて処理していた。それを一気に電子化したのだ。

1.2 生まれながらの世界最速

驚くべきは、この王国が生まれた瞬間から「即時入金」を実現していたことである。送金の指示を出せば、相手の銀行にはその場で通知が届く。これは当時、世界でも先進的な仕組みだった。1973年といえば、海外ではまだ即時入金の送金網が一般的ではなかった時代である。日本の送金網は、生まれながらにして世界最速級のひとつだった。

【用語解説】内国為替(ないこくかわせ)
「為替」とは、現金を直接運ばずにお金をやり取りする仕組みのこと。このうち国内の銀行どうしのやり取りを「内国為替」と呼ぶ。あなたが自分の口座から取引先の別銀行口座へ振り込むとき、その裏側では銀行と銀行のあいだで「あとで精算するね」という約束(債権・債務)が発生している。全銀システムは、この約束を全国分まとめて集計し、清算する巨大な帳場(ちょうば)にあたる。

王国はよく働いた。そして、ほとんど誰にも意識されなかった。振込ボタンを押した人が「いま全銀システムが動いた」と感じることは、まずない。インフラとは、うまくいっているときほど透明になるものである。


CH.02

昼にしか動かない城

あらすじ:世界最速の王国には、長いあいだ奇妙な掟があった。「平日の昼しか動かない」。金曜の夜に振り込むと月曜まで着かない――その理由の話。

2.1 平日8時30分〜15時30分という掟

だが、この世界最速の王国には、長いあいだ、ひとつの奇妙な掟(おきて)があった。

――王国は、平日の昼にしか動かない。

全銀システムのオンライン処理には「コアタイム」と呼ばれる稼働時間が定められており、長らく平日の午前8時30分から午後3時30分までに限られていた。この時間を過ぎると、他行あての振込は「その場で相手に届く」処理が止まる。夜間や土日祝日に振り込んでも、相手の口座に反映されるのは、翌営業日の朝だった。

2.2 夜に門を閉じる私道

なぜか。銀行それぞれの内部システム、いわゆる「勘定系」が夜には店じまいしてしまうからである。

【用語解説】勘定系(かんじょうけい)システム
各銀行が自前で持つ、預金残高や入出金を管理する中枢システムのこと。全銀システムが「銀行と銀行をつなぐ幹線道路」だとすれば、勘定系は「各銀行の玄関から幹線までの私道」にあたる。幹線が24時間開いていても、私道の門が夜に閉まっていれば、荷物は届かない。

こうして、日本人は長いあいだ「金曜の夜に振り込んでも、月曜まで着かない」世界に暮らしてきた。給料日前の金策も、週末の取引先への支払いも、すべては王国の門が開く平日の昼を待たねばならなかった。

奇妙なのは、この不便が誰にとっても「当たり前」になっていたことだ。世界最速で即時入金を実現したはずの王国が、夜と休日には眠っている。その矛盾を、45年ものあいだ、誰も本気で問題にしなかった。

読者へのひとこと
あなたの会社では今も、「振込は平日の午後3時までに」という社内ルールが残っていませんか。それはこの王国の掟の名残かもしれません。

CH.03

8年ごとの造り替え

あらすじ:王国のもう一つの伝統は「概ね8年ごとに全部造り替える」こと。そして半世紀、一度も止まらなかった――その誇りが、静かな油断の温床にもなっていく。

3.1 第1次から第7次へ

王国には、もうひとつの伝統があった。概ね8年ごとに、システムをまるごと造り替える。

1973年の第1次に始まり、第2次、第3次……と更改を重ね、2019年11月4日からは第7次全銀システムが稼働している。処理能力を増やし、機能を足し、古くなった設備を入れ替える。8年という周期は、金融インフラとしては手堅い代謝のリズムだった。

3.2 止まらないという誇り

そして王国は、この半世紀のあいだ、ある一点で驚異的な記録を守り続けた。

稼働開始以来、運用時間中にオンライン取引を停止したことがない。
— 全国銀行資金決済ネットワーク「全銀システムとは」より要約

止まらないこと。それがこの王国の誇りであり、存在理由だった。造り替えのたびに、旧システムから新システムへの移行は綱渡りの作業だったが、王国はそのつど、無事に世代交代を果たしてきた。

半世紀近く一度も止まらない――。それは金融インフラとして立派な勲章であると同時に、静かな油断の温床でもあった。「これまで止まらなかったのだから、今度も止まらない」。その前提は、ある日、裏切られることになる。


CH.04

誰も下げなかった通行料

あらすじ:王国には「通行料」=銀行間手数料があった。それが約40年ほとんど見直されず、公正取引委員会の指摘でようやく動いた話。

4.1 仕向け銀行が払う数十円

王国には「通行料」があった。銀行間手数料である。

あなたが他行あてに振り込むと、送金する側の銀行(仕向け銀行)は、受け取る側の銀行(被仕向け銀行)へ、1件あたり数十円〜百円台のお金を支払う。この銀行間の取り決めが、私たちが窓口やアプリで払う「振込手数料」の原価の一部を形づくっていた。

【用語解説】仕向け・被仕向け(しむけ・ひしむけ)
送金する側の銀行を「仕向け銀行」、受け取る側の銀行を「被仕向け銀行」と呼ぶ。荷物を送る側と受け取る側、と考えればよい。全銀システムの世界では、この二者のあいだで料金と債務のやり取りが発生する。

4.2 40年ぶりの改定

問題は、この通行料が約40年ものあいだ、ほとんど見直されなかったことだ。

2020年4月、公正取引委員会は報告書のなかで、現在の銀行間手数料の水準は「事務コストを大幅に上回っている」との見解を示した。実際にかかる処理費用よりも、通行料のほうがずっと高い、という指摘である。同年7月、政府が閣議決定した「成長戦略実行計画」でも、全銀システムの銀行間手数料引き下げが改革案として掲げられた。

現在の銀行間手数料の水準は、事務コストを大幅に上回っている。
— 公正取引委員会「フィンテックを活用した金融サービスの向上に向けた競争政策上の課題について」(2020年4月)より要約

これを受けて全銀ネットは、2021年10月から「内国為替制度運営費」という新しい仕組みを導入した。振り込む銀行から振り込まれる銀行へ支払う費用を1件あたり62円に定め、従来の銀行間手数料より55〜100円ほど引き下げた。40年ぶりの大改定である。そしてこの運営費は、5年に1度見直すことになった。

なぜ40年も動かなかったのか。誰かが不正をしていたわけではない。ただ、変える理由を誰も差し迫って感じず、変えるための調整コストは膨大だった。全員が「今のままで回っている」と思っているあいだ、通行料だけが時代に取り残されていった。


CH.05

モアタイムという名の夜明け

あらすじ:2018年、昼にしか動かなかった城にようやく夜が明ける。24時間365日の即時振込を実現した「モアタイムシステム」の話。

5.1 2018年10月9日の夜明け

昼にしか動かない城に、ようやく夜が明けたのは2018年である。

2018年10月9日、全銀ネットは「モアタイムシステム」を稼働させた。平日夜間・土日祝日の銀行間振込を、リアルタイムで処理する追加の仕組みである。これにより、それまで平日8時30分〜15時30分に限られていた即時振込が、24時間365日、いつでも相手に届くようになった。

【用語解説】モアタイム(MORE TIME)システム
「もっと長い時間(more time)動くシステム」という意味の愛称。従来のコアタイム(平日昼のみ)に対して、その外側の時間帯(夜間・休日)をカバーする。全銀システムの本体を止めずに、夜間帯を受け持つサブシステムとして増築された。

5.2 祝砲なき夜明け

稼働開始時点で参加したのは504の金融機関。以後、参加行は倍以上に増えていった。金曜の夜に振り込めば月曜まで着かない――そんな45年来の常識が、この日を境に静かに過去のものになった。

興味深いのは、多くの人がこの変化に気づきもしなかったことだ。不便が当たり前になりすぎると、それが解消されたことすら意識されない。夜明けは、祝砲もなく訪れた。


CH.06

50年目の空白

あらすじ:2023年、王国は半世紀の記録を失う。稼働以来初の大規模障害。しかもそれは「古い仕組みを新しくしよう」と前へ進む一歩のさなかに起きた。

6.1 止まらなかった王国が、止まった

そして2023年、王国は半世紀の記録を失う。

2023年10月10日、午前8時30分過ぎ。全銀システムと各銀行をつなぐ「中継コンピュータ(RC)」で不具合が検知された。三菱UFJ銀行、りそな銀行など10の金融機関で、他行あての振込処理ができなくなったのである。1973年の稼働以来、運用時間中に一度も止まらなかった王国の、初めての大規模障害だった。

【用語解説】中継コンピュータ(RC=Relay Computer)
全銀システム本体と、各銀行の勘定系システムのあいだに置かれ、電文(でんぶん=送金の指示データ)を仲介する装置。幹線道路と各銀行の私道をつなぐ「料金所」のような役割で、ここで送金手数料の入力・チェックなども行う。ここが詰まると、道路そのものは無事でも荷物が通れなくなる。

6.2 索引表の破損

原因は、直前の3連休(10月7〜9日)に実施したRCの更改作業にあった。新機種(RC23)への切り替えの際、金融機関名を格納するメモリー領域上の「インデックステーブル(索引表)」が破損し、手数料のチェック処理でエラーが生じて、システムが異常終了に陥ったのである。

影響は甚大だった。送金する側(仕向け)で影響を受けた振込は255万件。受け取る側(被仕向け)と合わせると、およそ506万件の振込処理に遅延などの影響が及んだ。復旧は10月12日未明。トラブルは丸2日間続いた。開発・運用を担うのはNTTデータである。

6.3 前進の途中でのつまずき

皮肉だったのは、この障害が「前進」の途中で起きたことだ。今回のRC更改は、古い大型汎用機(メインフレーム)から新しい方式への移行に向けた一歩でもあった。

【用語解説】メインフレーム
銀行や官公庁が長年使ってきた、大型で堅牢な業務用コンピュータ。信頼性は極めて高いが、設計が古く、維持費も高い。近年は、より安価で柔軟な新しい方式への置き換えが世界的な潮流になっている。全銀システムもその途上にあった。

半世紀止まらなかった王国は、次の時代へ渡ろうとしたまさにその最初の一歩で、つまずいた。「これまで止まらなかったのだから」という長年の前提が、静かに崩れた瞬間だった。


CH.07

王国の年代記

1973年4月9日
全国銀行データ通信システム(全銀システム)稼働開始。稼働当初から即時入金を実現
1970〜80年代
概ね8年ごとの更改を重ね、処理能力と参加金融機関を拡大
2018年10月9日
モアタイムシステム稼働。24時間365日の即時振込へ(開始時504行参加)
2019年11月4日
第7次全銀システム稼働
2020年4月
公正取引委員会が銀行間手数料は「事務コストを大幅に上回る」と指摘
2020年7月
政府「成長戦略実行計画」で銀行間手数料引き下げを改革案に
2021年10月
「内国為替制度運営費」導入。1件62円へ、約40年ぶりの引き下げ
2023年10月10日
中継コンピュータ(RC)更改の不具合で稼働以来初の大規模障害。約506万件に影響
2023年10月12日未明
障害復旧。トラブルは丸2日間継続

現在、全銀システムには1,000を超える金融機関が接続し、1営業日あたり十数兆円規模の送金を処理している。日本経済の血流そのものといってよい。


CH.08

誰も悪くなかった、という結末

あらすじ:全銀王国の歴史をたどると、責めるべき悪人がどこにもいない。全員が持ち場で合理的にふるまった結果として不便と歪みが温存された――日本のインフラが繰り返す「誰も悪くない調整問題」の話。

全銀王国の歴史をたどると、責めるべき悪人がどこにもいないことに気づく。

平日の昼にしか動かなかったのは、各銀行の勘定系が夜に閉じるからで、それぞれの銀行はきちんと自行の安全を守っていた。銀行間手数料が40年動かなかったのは、誰かが暴利をむさぼっていたからではなく、変える差し迫った理由と、変えるための膨大な調整コストが釣り合わなかったからだ。2023年の障害は、怠慢ではなく、むしろ「古い仕組みを新しくしよう」と前へ進もうとした更改作業のさなかに起きた。

全員が、それぞれの持ち場で合理的にふるまっていた。にもかかわらず、「金曜の夜に振り込むと月曜まで着かない国」が半世紀近く続き、通行料は時代から取り残され、一度も止まらなかった神経網はある朝、丸2日止まった。

これは、日本のインフラがしばしば直面する「誰も悪くない調整問題」の典型である。個々の判断はどれも正しい。ただ、全体を一気に変える主体がどこにもいないため、不便や歪みが静かに温存されていく。そして「これまで大丈夫だったから」という実績が積み上がるほど、変化の必要性は感じにくくなり、いざ変えるときの一歩が重くなる。

止まらないことは、王国の誇りだった。だが、止まらなかった半世紀そのものが、次の一歩を踏み出す勇気を、少しずつ奪っていたのかもしれない。

読者へのひとこと
あなたの会社にも、「昔からこうだから」で続いている仕組みはありませんか。全員が正しく、それでも変わらない――それは怠慢ではなく、変え方が難しいだけなのかもしれません。

私たちが今夜、スマートフォンから何気なく押す振込ボタンの向こうには、半世紀ぶんの「誰も悪くない」歴史が、静かに流れ続けている。


今夜も、どこかで誰かが振込ボタンを押す。
半世紀のあいだ、この王国はほとんど止まらなかった。
止まらないことが誇りであり、
止まらなかった歳月が、変わる勇気を少しずつ削っていった。
それでも、いまこの瞬間も、送金は着く。
誰にも気づかれないまま、血流は流れ続ける。
――決済 継続

参考・引用資料
一般社団法人 全国銀行資金決済ネットワーク「全銀システムとは」「内国為替取引・資金清算の仕組み」
一般社団法人 全国銀行協会「全国銀行データ通信システム(全銀システム)」
Wikipedia「全国銀行データ通信システム」
公正取引委員会「フィンテックを活用した金融サービスの向上に向けた競争政策上の課題について」(2020年4月)
内閣府「成長戦略実行計画」(2020年7月閣議決定)
Impress Watch「銀行間手数料が大幅引き下げへ。10月から」
日本経済新聞「全銀ネット障害、11行支障」「全銀システムとは 1日13兆円の送金に利用」
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