2年縛り王国の興亡
客を逃がさないための三つの城壁が、霞が関の号令で一枚ずつ崩されるまで
この記事は、日本の携帯電話業界に長く続いた「実質0円」「2年縛り」「SIMロック」という三つの商習慣と、それをめぐる総務省の規制の歴史をもとにしています。年号・制度名・数字はできるかぎり公開資料に沿って書いていますが、語り口は「王国の歴史書」に見立てたフィクション仕立てです。特定の企業や個人を批判する意図はありません。
かつて、携帯ショップの店先には、最新の電話機が「実質0円」の札をつけて並んでいた。数万円するはずの機械が、タダ同然で手に入る。多くの人が、その輝きに引かれて店に入り、書類にサインをした。
その裏側には、目に見えない三つの城壁があった。一つ目が「実質0円」。安く配って客を集める仕掛け。二つ目が「2年縛り」。安くするかわりに2年は逃げないでという約束。三つ目が「SIMロック」。買った電話機は、その会社の電波でしか動かないよう鍵がかかっていた。安く配り、長く縛り、他社へ持ち出せなくする。三重の壁は、どれも「お客さんのため」という顔をしていた。
これは、その三つの城壁が、四半世紀あまりの時をかけて築かれ、そして一枚ずつ取り払われていく物語である。壊したのは競争相手ではなかった。霞が関の役所だった。
王国の経済圏 ―「タダより高いものはない」の逆説
1.1 電話機が「買うもの」になった日
携帯電話がまだ珍しかった時代、電話機は「借りるもの」だった。それが1994年4月、通信会社からのレンタルをやめ、利用者が電話機を買い取る「売り切り制」に変わる。ここから、日本の携帯電話をめぐる独特の商売のかたちが始まった。
1.2 安さの原資は、みんなの通信料だった
そのかたちを支えたのが、販売奨励金(インセンティブ) である。携帯電話会社が、お店(販売代理店)に「1台売ってくれたらいくら払います」という奨励金を渡す。お店はその分だけ店頭価格を下げられる。だから、数万円するはずの電話機が、店頭では数千円、ときには0円で並んだ。
ただし、タダより高いものはない。お店に渡された奨励金の原資は、めぐりめぐって、毎月の通信料金から出ていた。つまり、頻繁に機種変更する人の電話機代を、みんなの通信料でこっそり負担する仕組みだったのだ。同じ電話機を長く大事に使う人ほど、損をする。それがこの経済圏の、静かな不公平だった。
第一の城壁「実質0円」
2.1 「実質0円」というからくり
安く配るための工夫は、やがて洗練されていく。その到達点が「実質0円」という言葉だった。
きっかけの一つが、割賦(かっぷ)販売である。電話機の代金を一括で払うのではなく、24回などの分割払いにする。そのうえで、毎月の通信料金から分割金と同じ額を割り引く。すると、電話機の代金は分割払いで残っているのに、割引で相殺されて、負担がゼロになる。これが「実質0円」のからくりだった。ソフトバンクが2006年9月に全店で始めた「スーパーボーナス」は、日本の携帯業界で初めてこの割賦方式を本格的に取り入れたものだとされる。
2.2 役所が最初に向けた疑問
この派手な売り方に、早くから疑問の目を向けていたのが総務省である。2007年、総務省の「モバイルビジネス研究会」は、通信料金と端末価格をはっきり分けるべきだ、という趣旨の報告書をまとめた。
この提言を受け、携帯各社は端末代と通信料を分ける新しいコースを導入する。auは2007年11月に「au買い方セレクト」を、ドコモは同月、FOMA 905iシリーズにあわせて「バリューコース/ベーシックコース」を始めた。第一の城壁は、この時点で一度ほころびかける。だが、割引の名目を変えながら、「実質0円」の看板はしぶとく生き延びていく。
第二の城壁「2年縛り」
3.1 二つの鎖 ― 自動更新と解約金
安く配った客を、逃がさない。そのための仕掛けが「2年縛り」だった。
正式には「2年契約」「定期契約」などと呼ばれる。2年間は続けて契約してくれるなら、毎月の基本料金を割り引きます、という約束である。一見ありがたい。だが、この約束には二つの仕掛けが隠されていた。
一つは、自動更新。2年たった「更新月」のあいだに手続きをしないと、契約はまた自動で2年延びる。うっかりすると、また2年の鎖につながれる。もう一つは、解約金。更新月以外に解約すると、違約金がかかる。大手3社の違約金は、そろって9,500円だった。
3.2 「出るときの痛み」が客をつないだ
つまり、乗り換えたいと思っても、タイミングを逃せば1万円近い出費が待っている。この「出るときの痛み」が、客を王国につなぎとめた。総務省はのちに、この構造について「長期の囲い込みが競争を妨げている」という趣旨の見解を示し、問題視することになる。
第三の城壁「SIMロック」
4.1 電話機にかけられた鍵
そして三つ目、最も物理的な城壁が「SIMロック」である。
携帯電話には、契約者を見分けるための小さなカード「SIM(シム)」が入っている。電話番号や契約の情報が記録された、いわば身分証だ。本来、このカードを差し替えれば、電話機はどの会社の電波でも使えるはずだった。
ところが日本では、各社が自社で売った電話機に鍵をかけていた。他社のSIMを差しても動かないようにしてあったのだ。これがSIMロックである。せっかく気に入った電話機を持っていても、他社に乗り換えたら、その電話機は使えない。買い直しになる。三つ目の城壁は、こうして客の足を、いちばん重い鎖でつないでいた。
4.2 鍵に打たれた最初のくさび
この城壁に、総務省が最初のくさびを打ったのが2010年である。「SIMロック解除に関するガイドライン」を策定し、やがて2014年の改正で、2015年5月以降に発売される電話機は、利用者が求めればSIMロックを解除できるようにすることが義務づけられた。鍵は、少しずつ外れる方向へ動きはじめた。
黒船は霞が関からやってきた
5.1 三つの城壁を同時に狙った法律
王国を本気で揺さぶった黒船は、競争相手ではなかった。監督官庁である総務省そのものだった。
2019年5月、改正電気通信事業法が成立し、同年10月1日に施行される。この法律が、三つの城壁を一度に狙い撃ちにした。
5.2 実質0円の禁止と、薄められた縛り
まず、通信料金と端末代金の「完全分離」が義務づけられた。「実質0円」のように、通信料の割引で端末代を帳消しにする売り方が禁じられ、端末の値引きには2万円という上限が引かれた。第一の城壁への直撃である。次に、2年縛りの解約金。それまで9,500円だった違約金の上限が、1,000円に引き下げられた。さらに、縛りのあるプランと縛りのないプランの料金差は、月170円以内に抑えるよう求められた。「出るときの痛み」も「縛るうまみ」も、法律で薄められたのだ。
城壁が消えた国
6.1 最後の砦が落ちる
法律が背中を押すと、城壁は次々と崩れていった。
まず2年縛りの解約金。ドコモは2021年10月、解約金と、その前提だった仕組みを廃止する。ソフトバンクは2022年2月、auは2022年3月までに、旧プランを含めて解約金を実質的になくした。9,500円の違約金は、こうして姿を消した。三大キャリアの「最後の砦」が落ちた、と報じられた。
SIMロックも、ついに原則禁止になる。2021年10月以降に発売される電話機は、原則として最初から鍵のかかっていない状態で売ることが求められた。買った電話機を他社でそのまま使える。当たり前のことが、ようやく当たり前になった。
6.2 ふさいでも湧く抜け道 ―「1円スマホ」
もっとも、王国はしぶとかった。「実質0円」が封じられたあとも、電話機を極端に安く売る工夫は形を変えて残った。回線契約とセットの割引に、電話機だけを安く売る「白ロム割」を組み合わせると、店頭には「1円スマホ」が並んだ。安く買った電話機を転売して稼ぐ人まで現れる。総務省は2023年、この抜け道もふさぐため省令を改め、同年12月27日から、回線セット割と白ロム割を合わせた値引きの上限を4万円までとし、電話機だけを買う場合の割引も規制の対象に加えた。上限の金額こそ引き上げられたが、これは規制の外にあった単体購入の割引を初めて縛る、穴ふさぎの改正だった。
王国の年代記
誰も悪くなかった、という結末
8.1 合理の総和として、客は動けなくなった
三つの城壁は、悪人がつくったわけではなかった。
携帯電話会社は、客を安く集め、長く使ってもらいたかった。それは商売として、まっとうな欲だ。販売店は、渡された奨励金で電話機を安く売り、たくさんの契約をとりたかった。それも仕事として正しい。利用者は、目の前の電話機が安ければ嬉しかった。誰も判断を誤ってはいない。それぞれの持ち場で、みんな合理的に振る舞った。ただ、その合理の総和として、客がいちばん動きにくい市場ができあがっていた。
8.2 誰も降りられないゲームの、降り方
こういう構造は、誰か一人が気づいて反省しても崩れない。売り手が城壁をやめれば、その売り手だけが客を逃がして損をするからだ。全員が同時に手を止める理由がない。だからこそ、内側の誰でもない、ルールを書き換える者の号令が要った。総務省が繰り返し規制を重ねたのは、市場を叱るためというより、誰も自分からは降りられないゲームの、降り方を用意するためだったのかもしれない。
8.3 城壁のない国には、目利きがいる
城壁が消えて、客は自由になった。番号はそのままに、好きな会社へ移れる。気に入った電話機を、どこでも使える。解約に、1万円の痛みはもうない。便利になったはずだ。それでも、あの「実質0円」の店先に並んだ最新機種の輝きを、少しだけなつかしむ人がいる。タダより高いものはない、と頭ではわかっていても。
自由とは、選ぶ手間を返してもらうことでもある。囲い込みから解き放たれた私たちは、これからは自分で、いちばん得な組み合わせを探しつづけなければならない。城壁のない国の住人には、それなりの目利きが求められる。