ノーツ王国の興亡
35年生き続ける血管と、誰も解体できない3,000のデータベース
本稿は、1989年に米国で生まれ、日本企業の血管として20〜30年間動き続けた Lotus Notes(ロータス・ノーツ/後の IBM Notes、現 HCL Notes)と、その上に積み上げられた数千の業務データベースをめぐる物語を、歴史書体裁のブラックコメディとして再構成したものです。年月日・人名・社名・統計値は公開資料に基づきますが、王国・血管・年代記といった語り口はフィクション的演出を含みます。
―― 35年前、ある一つのソフトが日本の大企業に静かに上陸した。やがてそれは、メールでも、文書庫でも、稟議書でもなく、「血管」 と呼ぶしかない何かに変貌した。今、その血管をどう抜くかをめぐって、何千もの日本企業が日々頭を抱えている。これは、その血管の物語である。
PLATO の片隅で生まれた発想
王国の起源は、1970年代初頭の米国・イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校にある。
当時の同校には PLATO(プラトー、Programmed Logic for Automatic Teaching Operations の略。コンピュータ補助教育のための先駆的システム)というメインフレーム型の教育用コンピュータが置かれていた。1973年、その PLATO 上で PLATO Notes という機能が動き始める。学内の利用者が掲示板にメモを書き込み、互いに読み合うための、世界最初期のオンライン議論ボードのひとつである。
その PLATO Notes の隣で学生時代を過ごした青年がいた。レイ・オジー(Ray Ozzie, 1955年生まれ)。彼は卒業後 Lotus Development に短期間在籍したのち、1984年12月7日、独立して Iris Associates(アイリス・アソシエイツ)社をマサチューセッツ州リトルトンに設立する。やりたいことはひとつ。「PLATO Notes のような場所を、企業に持ち込みたい」。
オジーは、Lotus 創業者ミッチ・カポーから資金とブランド使用権を受け、開発は Iris、販売とマーケティングは Lotus が担うという分業を組んだ。10年後の1994年、Lotus Development は Iris Associates を 約8,400万ドル で正式に買収する(出典:Wikipedia 英語版 “Iris Associates” ほか)。
Notes は、社内 BBS(電子掲示板)でもあり、共有ファイル庫でもあり、メールサーバでもある「全部入り」を狙った、当時としては野心的な設計だった。
1989年12月、王国は出荷される
開発は難航した。ベータ版の期間が長く、業界紙では「ベイパーウェア(vapor=蒸気+ware=製品。出る出ると言われていつまでも出てこないソフトを揶揄する語)」と揶揄された。
それでも、1989年12月、Lotus Notes 1.0 はついに出荷される。最初の年に売れたライセンスは 約35,000本(出典:Lotus Software 公式年表ほか)。当時の業務ソフトとしては大成功だった。
販売の主戦場は、米国の大企業だった。Notes は何より、社内に散らばる文書とメールを一つの容れ物に押し込めるのが上手かった。担当者が変わってもメモが残り、組織を横断してプロジェクトを共有できる。1990年代を通じ、Notes は 「グループウェアの代名詞」 になっていった。
1995年、IBMが35億ドルでNotesを買う
1995年、IBM は突然動いた。
90年代半ばの IBM は、メインフレーム時代の体質をなお色濃く残し、自社のメッセージングと文書共有の柱を必要としていた。Notes は、それにぴったりの “完成品” だった。買収後、Notes は IBM Lotus Notes、続いて IBM Notes とブランド名を変えながら、IBM ソフトウェア部門の旗艦製品の一つとなる。
このころが、世界の Notes が最も輝いていた時代である。
日本上陸、そして「7割が使う」時代へ
日本での Notes の歴史は、グループウェアの導入競争そのものだった。
業界紙や移行ベンダー各社の回顧によれば、2000年代の日本のグループウェア市場で、Notes は一時期 70%前後のシェアを取っていた とされる(出典:日経クロステック・JBCC・ワークスアプリケーションズ各社のコラム要約)。富士通、日立、三菱グループ、製造業大手から金融・商社まで、Notes は 「日本の大企業の標準」 に近づいていった。
理由は、いくつもある。
ひとつは、通信回線が遅かった時代に向いていたこと。Notes は「レプリケーション」(複製)と呼ばれる仕組みを持っていた。手元のクライアントが社内サーバ、海外拠点のサーバ、出張中のノート PC それぞれと差分だけを行き来させて同期する。1990年代の細い専用線でも動かせる、稀有な分散ソフトだった。
もうひとつは、自社で簡単に DB を作れたこと。Notes は、ユーザー部門の担当者が「申請書を作りたい」「議事録を回覧したい」と思えば、IT 部門を待たずに自分で DB を立ち上げられた。@式(アットしき、Notes 独自の関数言語、英語名 @formula language)と LotusScript(ロータススクリプト、Visual Basic に似た手続き型言語)を覚えれば、ちょっとしたワークフローも作れた。
ユーザー部門は喜んだ。IT 部門は「ガバナンス」という言葉をまだ知らなかった。
DB が、増殖する
数年が過ぎ、各社の Notes サーバの中で異変が起きていた。
DB が、増えていた。気づけば数百になり、千を超え、ある会社では 3,000 を超える DB が積み上がっていた(後述の横浜ゴム事例)。誰がいつ何のために作ったか分からない DB、似たような名前で重複している DB、最後の更新が10年前で止まっている DB。社内のどこかにそれは確かに動いていて、誰かがそれにメールリンクを送り、誰かがそれをブックマークし、誰かの業務がそれに依存している。
開発した本人は退職した。仕様書は最初から書かれていなかった。@式と LotusScript を読める人は、社内に1人しかいない。その1人が、社内で 「Notesおじさん」(業界の俗称)と呼ばれていることに、本人は気づいていない。あるいは気づいていて、半分諦めている。
王国の血管は、もう誰にも全体図が描けない迷宮になっていた。地図は、永遠に作り直しのまま、書斎の引き出しに眠っていた。
Webの大波、しかし血管は抜けない
2000年代後半、もう一つの大波がやってきた。Webブラウザだけで完結するグループウェア の登場である。
サイボウズ Office、Google Apps(2006年提供開始、後の Google Workspace)、Microsoft の Exchange/SharePoint、のちに登場する Microsoft 365。インストール不要、保守は提供事業者まかせ、社外からも使える。Notes が誇った「遅い回線でも動く」という強みは、ブロードバンドと携帯回線の高速化のなかで急速に意味を失った。
それでも、王国はそう簡単に明け渡されなかった。日本企業のなかで動いている Notes には、承認ワークフローと、社内文書庫と、製造業の品質記録と、法務の契約管理と、何より過去20年ぶんの議事録と決裁が、すべて積み重なっていたからだ。新しいグループウェアに「乗り換え」と一言でいうが、それは全身の血管を別系統に取り替える大手術 に近い。
2018年4月の日経クロステック報告では、Notes は最新版 V10 を出して “今も現役” と紹介された(出典:日経クロステック「グループウエアの元祖Notesは今も現役、2018年に最新版」2018年)。30年経って、なおメジャーバージョンが続いていた。
2018年12月6日、IBM が手放す
しかし、本家側には別の事情があった。
IBMは、Notes、Domino、Connections、Portal、Commerce、AppScan、BigFix、Unica といったかつての主力製品群をまとめて、インドの IT サービス大手 HCL Technologies(HCL テクノロジーズ)に手放すことを決めた。クロージング(最終手続き完了)は2019年。
IBM はクラウドと AI に経営資源を集中させたかった。クライアントPCに依存する旧来型のグループウェアは、その戦略から外れた。Notes は IBM の旗艦から降ろされ、HCL Notes として、もう一度別の親に引き取られていく。
35億ドルで買われた製品が、23年後、別バンドルに混ぜられて18億ドルで売られた。買い値の半額に届かない。だがその間に、Notes は世界中の何百万もの企業ユーザーの業務に、文字通り溶け込んでいた。血管は、親会社が変わっても、流れ続けた。
日本市場の地殻変動――2.4%
HCL に渡ったあと、世界では Notes の存在感はじわじわと薄れていく。日本でもそれは同じだった。
調査会社キーマンズネットの2020年の調査では、Notes の国内シェアは 2.4% にまで落ちていた(出典:JBCC 株式会社「Notes が2024年6月1日にサポート終了」コラムが引用するキーマンズネット2020年調査)。一時 70%とも言われた王国は、およそ20年で30分の1規模に縮小していた。
「脱Notes」「ポストNotes」という言葉が、IT ベンダーの提案資料の表紙を飾るようになった。Microsoft 365 へ、Google Workspace へ、Salesforce や kintone や SmartDB へ。各社が「Notes 移行支援サービス」のページを作り、移行ガイドが出版された。
そして、HCL は決定的な期限を打った。
V9 は2013年提供、V10 は2018年提供、いずれも IBM 時代の最後のメジャー版だった。HCL に切り替わったあとに出た V11 以降に乗り換えるか、別製品に移行するか。期限が、ゆっくりと、しかし確実に近づいていた。
横浜ゴム、3,000の DB を 300 にする
「脱Notes」の現場で、最も知られた事例のひとつが、横浜ゴム の移行プロジェクトである。
ドリーム・アーツ社の公開事例によれば、横浜ゴムは20年にわたって全社で IBM Lotus Notes/Domino を使い続け、社内に 約3,000の業務 DB を抱えていた。新基盤の SmartDB に移行するにあたり、まずやったのは、棚卸し だった。
3,000の DB を、Notes のアクセスログを参照しながら「本当に使われているか」でふるい直す。実際に動いているのは 約500。さらに、業務上の重要度と重複度で絞り込み、最終的に300の DB が新基盤への移行対象となった。
そして、約2年で 300 の業務 DB の95%以上 が SmartDB に移行された(出典:ドリーム・アーツ「短期間で大規模 “脱Notes” を成功させるプロジェクトの進め方」2017年公開・横浜ゴム導入事例)。
つまり、20年の蓄積のうち、実際に必要だったのはおよそ10分の1 だった。残りの2,700は、誰のものでもなく、誰のためのものでもなく、ただ「動いていたから残っていた」のである。これは横浜ゴムだけの話ではない。あらゆる Notes 王国に、似たような比率の影が積み重なっていた。
王国の年代記
誰も悪くない、しかし誰もやめられなかった
ノーツ王国の興亡を眺めると、悪人がいないことに気づく。
開発者のレイ・オジーは、当時の制約のなかで先進的なソフトを世に出した。IBM は時代の主役を買い、時代の変わり目で手放した。日本の大企業は、回線が細い時代に Notes を選び、業務をその上に積んだ。ユーザー部門は、IT に頼らず自分たちで DB を作れる自由を喜んだ。Notesおじさんは、引退しないで現場を支えた。
すべての判断は、その時点では正しかった。問題は、判断が 積み上がっていくことだった。
紙の決裁を Notes DB に置き換えた1990年代の判断と、海外拠点のレプリケーションを Notes に任せた2000年代の判断と、退職した先輩の DB を「とりあえず動いているから」と残した2010年代の判断は、別々の人間の、別々の合理的な選択だった。それらが20年積み重なって、3,000 の DB の塔ができていた。
血管を入れ替える手術には、莫大な金と時間と政治的な意志がいる。手術の途中で出血すれば、業務が止まる。だからほとんどの組織は、「いまの血管をだましだまし使い続ける」 ことを選んできた。
これは Notes に限った話ではない。FAX、Excel方眼紙、IE依存、ハンコ、ガラケー、Y2K、文字コード、ITゼネコンの多重下請け――外典シリーズで眺めてきた王国は、すべて「いま動いている血管を抜けない」という同じ構造を共有している。Notes はその中で、最も上手に、最も長く、企業の血管に成りすました製品だったといえる。
血管の太さは、組織の年齢に比例する
最後に、王国の興亡から残るのは、また人間論である。
組織は、長く生きるほど、ソフトウェアの血管が太くなる。創業から20年経った会社は、20年ぶんの DB を抱える。30年経った会社は、30年ぶんの “誰の作かわからない DB” を抱える。新しいソフトに乗り換えるための予算は、その血管の太さに比例して必要になる。だが、その予算を出してくれる経営判断は、新しいソフトの機能差には反応しても、古いソフトの沈黙の負債にはあまり反応しない。
Notes の30年は、「いま動いているソフトを止められないこと」が、機能の問題ではなく、組織の年齢と意思決定のクセの問題である ことを、私たちにゆっくり教えてくれた。サポート終了という外圧でようやく動き出すのは、Y2K のときと同じである。期限が決まらなければ、組織は動かない。
それでも、いま脱Notes の現場で起きていることには、希望もある。3,000の DB のうち、本当に必要なのは300だった、という事実は、過去20年の蓄積のうち、およそ10分の1で十分だった という気づきでもある。引っ越しは、捨てる作業でもある。どの DB を残すかを決めることは、自分たちの仕事の重みと意味を、もう一度測り直すことでもある。
Notes が遺した最も大きな贈り物は、もしかすると、「全部は持っていけない」と気づく機会 だったのかもしれない。