オフコン王国の興亡
中小企業の事務室に据えられた「専用機」が、静かに退位するまでの57年
事務室の奥に、その機械はいた。パソコンより大きく、冷蔵庫より小さい。締め日の朝になると担当者がスイッチを入れ、緑がかった画面が立ち上がり、ドットプリンタが伝票を吐き出しはじめる。
その機械には、日本にしかない名前がついていた。オフコン。中小企業の事務のためだけに、日本のメーカーが独自に設計した専用のコンピュータである。
そして2018年、最大手の一社が専用機の製造をやめた。使う側が飽きたからではない。作る側が、先に降りたのだった。
本稿は実際の出来事・製品・統計に基づいていますが、語り口は歴史書の体裁を借りたフィクション仕立てです。「王国」「即位」「退位」といった表現は比喩であり、特定の企業・個人を批判する意図はありません。事実関係は末尾の参考資料に基づいています。
建国――事務室に置ける計算機
1.1 算盤と締め日のあいだで
1961年、日本の事務室に、ある奇妙な機械が運び込まれた。
カシオ計算機の「TUC コンピュライター」。日本電気(NEC)の「NEAC-1201」。ウノケ電子工業(後のユーザック)の「USAC-3010」。呼び名も設計もばらばらだったが、目的はひとつだった。伝票を書く。元帳をつける。数字を合わせる。それまで人間が算盤と手書きでやっていた仕事を、機械にやらせる。
当時の「コンピュータ」は、専用の部屋と、専用の空調と、専用の技術者を必要とする巨大な装置だった。大企業と大学と役所のものであり、町工場や商店のものではなかった。
だが日本の中小企業には、切実な事情があった。従業員は増えない。伝票は増える。締め日は毎月やってくる。
1.2 海外とは逆向きに進んだ進化
そこで生まれたのが、「事務室に置ける大きさで、事務員が自分で動かせる計算機」という発想である。
興味深いのは、進化の向きが海外と逆だったことだ。米国では、研究用の小型機(ミニコンピュータ)の上に事務用のソフトを載せる、という順序でこの種の機械が広まった。対して日本では、事務処理専用のハードウェア・OS・周辺機器・開発言語が、最初からセットで作られた。
1968年、三菱電機が発表した元帳会計計算機「MELCOM81」で、この種の機械に初めてある呼び名が与えられる。
オフィスコンピュータ。略して、オフコン。
王国の名が、決まった瞬間だった。
王国の憲法――「標準構成で1,000万円未満」
2.1 六つの条件
新しい王国には、境界線が必要である。
1975年、日本電子工業振興協会(電子協・JEIDA)が、オフコンの定義を初めて公式に定めた。分類名としての「オフコン」が、業界の共通言語になった瞬間である。
その定義は、六つの条件からなっていた。事務処理を主業務とすること。オペレータが直接操作できること。伝票発行から元帳処理までできること。そして最後の一項が、この王国の性格をよく表している。
2.2 値段で引かれた国境線
1,000万円未満。
現代の感覚では安くない。だが当時、コンピュータといえば億単位が当たり前だった時代である。「1,000万円を切る」ことは、コンピュータが大企業の設備から、中小企業の道具へと降りてきたことを意味していた。
定義にはもうひとつ、印象的な条項がある。「専任のプログラマ不在でも利用でき」「必ずしも専門のオペレータを置く必要はない」。
つまりオフコンとは、性能で定義された機械ではなかった。専門家がいない会社でも使えることによって定義された機械だったのである。
この価格条項は、1989年に定義から削除される。王国が、価格で身分を証明する必要のない規模まで育った証だった。
漢字が書けた王国
3.1 請求書に、社名が漢字で出る
1970年代後半、オフコンは日本語という強力な武器を手に入れる。
1978年、東芝が日本初の本格的な漢字対応オフコン「TOSBAC漢字システム15」を発表。翌1979年には富士通、沖電気、カシオが続き、1980年には三菱電機、日立、NECが漢字対応機を市場に投入した。
これが決定的だった。
請求書に取引先の社名が漢字で印字される。品名が漢字で出る。担当者の名前が漢字で並ぶ。当たり前のことに聞こえるが、当時の海外製コンピュータには到底できない芸当だった。
3.2 商習慣という、もうひとつの城壁
しかも日本の事務処理には、独特の作法がある。締め日と支払日がずれる。手形がある。得意先ごとに単価が違う。伝票のフォーマットが業界ごとに決まっている。
オフコンは、こうした「日本の商習慣そのもの」を機械の中に写し取っていった。結果として、この市場には海外メーカーがほとんど入ってこられなかった。技術力の問題ではない。日本の事務のかたちを知らなければ、売れる製品が作れなかったのである。
王国は、言語と商習慣という二重の城壁に守られていた。
絶頂――累計50万台の版図
4.1 三強から二強、そして黒船
1980年代前半、オフコン市場はNEC・三菱電機・東芝の三強といわれた。1980年代後半には富士通が急速に台頭し、NECと富士通の二強時代に入る。
そこへ黒船が来る。1988年、日本IBMが「AS/400」を投入。当時の椎名武雄社長の号令のもと、中堅企業市場を本格的に開拓し、三強の一角を占めるまでになった。
4.2 1日300台が事務室に運ばれた時代
1990年代前半、王国は絶頂を迎える。
最盛期、シェア3割を握っていた富士通は累計50万台の出荷に沸いたという。首位を争うNECは、年間8万台を出荷していたとされる。
年間8万台。年間の営業日をおよそ250日として割れば、1日に300台以上のオフコンが、日本のどこかの事務室に運び込まれていた計算になる。
4.3 機械だけでは、王国は建たない
そして重要なのは、オフコンが単体では売られなかったことだ。オフコンを売り、その上に業務システムを構築し、保守までを担う販売店(ディーラー)が全国に網の目のように広がっていた。数十社のメーカーと、その何倍もの販売店。地域の小さなソフト会社の社名に「○○オフィスコンピュータ」が並んだのも、この時代である。
王国は、機械だけでできていたのではない。機械と、それを納めて面倒を見る人々でできていた。
黒船は、事務机の上からやってきた
5.1 オープンシステムという物量
王国を揺るがしたのは、より高性能な大型機ではなかった。
パソコンだった。
1990年代、WindowsとIntel製プロセッサの組み合わせによって、パソコンの性能と価格の比率が劇的に改善する。やがてWindows Serverが登場し、「オープンシステム」が事務用コンピュータ市場の主役に躍り出た。
5.2 長所が、そのまま短所になる
オフコンの強みは、そのまま弱みに変わった。
専用設計だから安定していた。専用設計だから、他社製品と部品を共有できなかった。専任の技術者が不要だから普及した。専用OSだから、技術者は市場から供給されなかった。
さらに1999年、追い打ちがかかる。西暦2000年問題である。多くのオフコンが日付処理の見直しを迫られ、この機会にシステムを入れ替えた企業は少なくなかった。
5.3 中身を入れ替えて、約束を守ろうとした
各メーカーも手をこまねいていたわけではない。オフコン用のOSをWindowsや汎用プロセッサの上で動くように改造し、既存の業務資産を守ろうとした。富士通のGRANPOWER6000シリーズ、NECのExpress5800/600シリーズ、三菱電機のRX-7000シリーズ。中身は入れ替わっても、お客様の資産は生き続けます、という約束である。
だが、世界市場を背骨に持つオープンシステムの物量には、抗しきれなかった。
王が、臣民より先に退位した
6.1 降りたのは、作る側だった
オフコン王国の終わり方には、ひとつの特徴がある。
使う側が飽きたのではない。作る側が先に降りたのである。
日立製作所は1993年、東芝は1996年に、新規モデルの製造を中止した。そしてIDC Japanの調査によれば、年間出荷台数は2000年の10,170台から、2015年には1,022台へ、15年で1割にまで落ち込む。
2015年、NECが最終モデルを出荷。2018年3月末には、富士通がオフコン専用ハードウェアの販売を終え、クラウド上でオフコン環境を提供する方式へ切り替えた。
ただし、オフコンという系譜そのものが絶えたわけではない。三菱電機は2016年にも最新機種を出荷しており、日本IBMのAS/400の後継は「IBM i」として現在も開発が続いている。消えたのは「日本メーカーが専用ハードウェアを作り続ける」という形のほうだった。
6.2 40年、一度も壊れなかった機械
問題は、そのとき現場に何が起きたかである。
大阪の紡績会社、新内外綿。社員36人のこの会社は、1979年以降NECのオフコン上に営業・販売・在庫・生産・物流の各システムを築いてきた。全社システムの7割がオフコンで動き、本社と支店の2台は6代目。ここ10年、ハードウェアの故障はゼロ。年間保守料は100万円以下。
同社の担当者は、こう語っている。
6.3 失われたのは、機械ではなかった
東京・渋谷のある大学では、別のかたちの喪失が起きた。同大学は1992年以来、職員自身がシステムを内製する体制を築き、10人以上のCOBOL開発者と、60人以上の簡易言語開発者を育てていた。年間保守料は160万円。パッケージ製品を使う場合の1桁下である。
オフコンが終わるということは、この機械が使えなくなるということではなかった。20年かけて社内に育てた「自分たちで直せる」という能力が、行き場を失うということだった。
6.4 メーカーにも、言い分はある
メーカー側にも言い分はある。NECの担当者は「撤退したという認識はない」として、2016年時点の説明では、ハードウェア保守は2020年6月まで、OS保守は2023年1月まで継続するとしていた。600社の販売店とともに、最後の1台まで移行を支援する方針だったという。同時に、「一部のお客様とコミュニケーションが不足していたのは反省する」とも述べている。
赤字の事業から撤退することは、経営判断として何も間違っていない。40年動いている機械を使い続けることも、経営判断として何も間違っていない。
間違っていない者同士が、静かにすれ違った。
王国の年代記
誰も悪くなかった、という結末
8.1 悪役のいない歴史
オフコン王国の歴史を並べてみると、悪役が一人も見つからない。
メーカーは、市場が縮小し採算が合わなくなった事業から撤退した。正しい。ユーザーは、故障もせず年間100万円以下で回る仕組みを使い続けた。正しい。販売店は、目の前の顧客の業務に合わせて作り込みを重ねた。正しい。そして日本の中小企業は、自社の商習慣に合った道具を選んだ。これも、正しい。
全員が正しくふるまった結果として、王国は静かに縮んでいった。
8.2 よくできた道具ほど、替えどきを教えてくれない
ここには、道具というものの本質が現れている。よくできた道具ほど、乗り換えるきっかけを与えてくれないのである。壊れれば買い替える。使いにくければ捨てる。だがオフコンは、壊れなかった。使いにくくもなかった。40年、黙って締め日の仕事をこなし続けた。
そして気がついたときには、その機械を作る人も、直せる人も、教えられる人も、いなくなっていた。
制服メーカー、ベストの吉川五一郎社長は、移行を即断した理由をこう語っている。
替えどきは、壊れたときではない。まだ立派に動いているうちに、決める人がいるときである。