QRコード決済乱戦王国の興亡
100億円をばら撒いた者たちの記録
本記事は実際の技術的・社会的背景に基づいたブラックコメディ仕立ての読み物です。引用・参照はすべて実在の文献・発言・報道に基づきますが、語り口はフィクション的表現を含みます。
黒船、二度目の来航
1.1 中国から来た「決済革命」という圧力
西暦2018年。日本のコンビニ、家電量販店、居酒屋に、また新たな「黒船」が現れた。
その名は「QRコード決済」。中国ではすでに現金を駆逐しつつあった技術である。アリペイ(支付宝)とウィーチャットペイ(微信支付)が13億人の財布を掌握し、道端の物乞いさえスマートフォンのQRコードを掲げているという報告が届いていた。
1.2 政府目標という名の呼び水
遅れを取った日本の事業者たちは焦った。「このままでは中国に遅れる」という焦燥感が政財界を支配した。内閣府は「キャッシュレス比率40%」という目標を掲げ、経済産業省はポイント還元事業を予算に組み込んだ。
こうして群雄割拠の戦国時代が、静かに、しかし爆発的な勢いで幕を開けた。
元祖・先覚者の敗北
2.1 4,170億円の評価額と259万円の売却額
実は、日本初のQRコード決済サービスは2013年に誕生していた。
スタートアップ企業「Origami(オリガミ)」が立ち上げた「Origami Pay」である。先見性ある若者たちが、スマートフォンと店頭QRコードで支払いを完結させるサービスを先行展開した。一部の飲食店やアパレルで使え、熱心なユーザーに愛された。
しかし時代は早すぎた。スマートフォン決済への理解がまだ浸透しておらず、加盟店も広がらなかった。
2.2 先行者が飲まれた理由
2019年11月、日本経済新聞の調査でOrigamiの企業評価額は4,170億円と報じられた。次なるユニコーン企業(評価額1,000億円超の未上場企業)との声もあった。
しかしその3ヶ月後、2020年2月、Origamiはメルカリ子会社のメルペイに全株式を譲渡することを発表した。譲渡価格は1株1円、総額259万円。実質タダ同然であった。
「Origami Payは収入が30億円未満で年間損失は25億円、一方で事務所の年間賃料だけで30億円」
── 岩田昭男氏(キャッシュレス研究家)によるビジネス分析より要約
ソフトバンクの打ち上げ花火
3.1 100億円、10日で消える
2018年10月、ソフトバンクとヤフーが共同出資するPayPay株式会社が「PayPay」サービスを開始した。
そして同年12月4日、歴史に残るキャンペーンが発動される。
「100億円あげちゃうキャンペーン」。
支払額の20%還元、40回に1回は全額還元、SoftBank・Y!mobileユーザーは10回に1回の全額還元という、前代未聞の大盤振る舞いであった。当初4ヶ月の予定でスタートしたキャンペーンは、爆発的な反響を呼んだ。
3.2 400万人の10日間
登録者数は12月4日の時点で203万人、週末には366万人に到達した。家電量販店のレジには長蛇の列が生まれ、「PayPayで20%オフ」という口コミがSNSを駆け巡った。
そして12月13日、午後11時59分。
キャンペーン開始からわずか10日で、100億円は底をついた。当初4ヶ月かかる予定だった予算が10日で消えた。獲得新規ユーザーは約400万人、決済件数は10日間で330万件。
城壁、砂でできていた
4.1 試行無制限という無防備
100億円キャンペーン直後の2018年12月、ある不都合な事実が明るみに出た。
PayPayのクレジットカード決済において、セキュリティコード(カード裏面の3桁の番号)の入力試行回数に上限が設定されていなかったのである。悪意ある第三者は機械的に番号を試し続けることができた。流出したカード情報と組み合わせた不正利用が相次いだ。
4.2 0.996%から0.0004%へ
不正利用発覚率は第1弾キャンペーンで0.996%。100件に1件が不正取引という水準であった。PayPayは2019年1月に本人認証サービス「3Dセキュア」を導入し、第2弾キャンペーンでは不正率は0.0004%まで低下した。
武将乱立、天下三分どころか十五分
5.1 十数社が一斉に参入した2018年前後
PayPayの成功を見た各陣営が一斉に参戦した。LINE Pay、楽天ペイ、d払い、au PAY、FamiPay、メルペイ、ゆうちょPay——一時は十数社が市場に乱立した。
各社は独自のQRコードを持ち、加盟店は複数のQRコードを貼り出さざるを得なくなった。小さな個人商店のレジ横には、各社のQRコードプレートが七色の花のように咲き乱れた。店員は客に「どのペイですか?」と確認し、スマートフォンを差し出す客もどのアプリを開けばよいか一瞬迷う光景が日常となった。
5.2 JPQRという「答え」が普及しなかった理由
危機感を覚えた政府は2019年3月、経済産業省主導で「JPQR」という統一規格を策定した。一枚のQRコードで複数のサービスに対応できる仕様だ。しかし各社の利害が複雑に絡み合い、JPQRへの移行は遅々として進まなかった。
七つの炎、三ヶ月で消える
6.1 開始翌日の悪夢
2019年7月1日、セブン&アイ・ホールディングスが満を持して「7pay(セブンペイ)」を開始した。全国2万店以上のセブン-イレブンでの利用を見込み、鳴り物入りのサービス開始であった。
翌日、7月2日。「身に覚えのない取引がある」という問い合わせが殺到した。第三者が利用者になりすましてログインし、登録済みのクレジットカードでチャージして、店頭でタバコを大量購入するという手口が確認された。7月31日時点で被害者808名、被害総額約3,861万円。
6.2 「二段階認証……?」
「なぜ7payに二段階認証がないのか」という記者の質問に対し、7pay社長・小林強氏は「二段階認証……?」と言葉に詰まり、首をかしげる場面が報じられた。後日(8月1日)の廃止発表会見では奥田営業部長が「利用状況モニタリングで守れるという仮説があった。現時点ではその認識は適切ではなかったと反省している」と述べた。
── ITmedia NEWS「7pay終了へ 記者会見の一問一答まとめ」(2019年8月1日)ほか各メディア報道より
8月1日、セブン&アイは9月末でのサービス廃止を発表した。開始から廃止決定まで31日。最後の決済が行われたのは2019年9月30日。セブンペイはサービス開始から3ヶ月で歴史の幕を下ろした。
合従連衡、そして独り勝ち
7.1 LINEとYahooの奇妙な同居
2021年3月、ZホールディングスとLINEが経営統合し、後にLINEヤフー株式会社へ社名変更した。グループ内にPayPayとLINE Payという二つの決済サービスが共存するという奇妙な状態が数年続いたが、2022年7月、LINE PayのQRコードはPayPayに一本化された。
7.2 100億円キャンペーンから7年後の答え
そして2024年6月、LINEヤフーはLINE Payの完全終了を発表。2025年4月30日をもってサービスを終了し、グループ内の決済をPayPayに集約した。
日本初のQRコード決済を担ったOrigamiは消え、コンビニ大手の7payは3ヶ月で消え、LINEという日本最大のコミュニケーションアプリが擁したLINE Payも消えた。
残ったのは、100億円をばら撒いた者たちであった。
2024年度、PayPayの取扱高は12兆5,000億円。QRコード決済市場のシェアは65.1%(2025年1月調査)。上位4サービス(PayPay・楽天ペイ・d払い・au PAY)で市場の93.2%を占めた。
王国の年代記
誰も悪くない、しかし誰も得しなかった
9.1 合理的な行動の非合理な帰結
この乱戦王国の本質は何だったのか。
悪人はいない。各社は合理的に動いた。市場の先行者利益を狙い、多額の初期投資でユーザーを囲い込み、競合が撤退すれば収益化を目指す。教科書通りの「先行投資型プラットフォーム戦略」である。
しかし傍から見れば、膨大な資金が「手数料ゼロ」「ポイント還元」という形で消費者に撒き散らされ、体力のない事業者が次々と撤退し、加盟店は混乱し、消費者はアプリのインストールと管理に疲弊した。
9.2 「誰も責任を持って問わなかった」という組織の空白
セブンペイの失敗は、社内の縦割り組織とセキュリティ軽視が生み出した人災だった。7pay専用アプリの開発チームと、7iD(セブン&アイの共通IDシステム)の管理チームが分断されていたことで、「パスワードリセット時にメールアドレス以外の宛先にも送信できる」という致命的な脆弱性が見逃されたとされている。
「なぜ二段階認証がなかったのか」という問いへの答えは、「誰も責任を持って問わなかった」という組織的な空白だった。
100億円は10日間で消えた。
4,170億円の評価額は259万円になった。
3ヶ月の王国は、記者会見の言葉ひとつで終わった。
QRコードそのものは、今日も静かにレジ横に貼られている。
何枚かが剥がされ、何枚かが残り、
誰かが読み取り、誰かが迷い、誰かが通り過ぎる。
決済は、完了した。
―― 送金 完了