シグマ王国の興亡
情報処理王国史 外典第四十四巻
Σ

シグマ王国の興亡

ソフトウェアを「工業製品」にしようとした、250億円の夢

SIGMA PROJECT UNIX 1985

1985年、日本の役所は未来をのぞき込んで青ざめた。 このままでは、ソフトウェアを作る職人——プログラマーが、2000年には97万人も足りなくなる。コンピュータ大国が、ソフトを作れずに立ち往生してしまう。

そこで国は、得意技を持ち出した。「ものづくりの工業化」である。職人が足りないなら、ソフト作りを工場のように効率化すればいい——こうして250億円の国家プロジェクト「シグマ計画」が動き出した。

だが、ソフトウェアは鉄やネジのように、ラインに乗せられるものではなかった。これは「お役所仕事の失敗」という単純な物語ではない。一番の得意技が、よりによって一番効かない相手に振るわれた——誰も悪くないのに、こうなった、という構造の記録である。

この記事について
本記事は実際の技術的・社会的背景に基づいたブラックコメディ仕立ての読み物です。引用・参照はすべて実在の文献・発言・報道に基づきますが、語り口はフィクション的表現を含みます。登場する個人・企業・団体への批判意図はなく、「誰も悪くない、けれどこうなった」という構造的問題を描くことを目的としています。
CH.01

予言された、人手不足

あらすじ: 1985年、日本のソフトウェア技術者は将来90万人規模で不足すると予言された。その危機に、国は「ものづくりの工業化」という得意技で立ち向かおうとする。シグマ計画の出発点を描く。

1.1 役所が見た、青ざめる未来

1985年、ある王国の役所が、未来をのぞき込んで青ざめた。

そこに見えたのは、深刻な人手不足だった。コンピュータが社会のあらゆる場所に入り込み、動かすための「ソフトウェア」がいくらあっても足りない。ところが、それを作る職人——プログラマーの数が、まったく追いつかない。役所の試算によれば、1990年には約60万人、2000年には約97万人ものソフトウェア技術者が不足するという。

これは、当時「ソフトウェア危機」と呼ばれて世界中を不安にさせていた問題の、日本版だった。需要は爆発的に伸びるのに、供給する人間が育たない。このままでは、せっかくのコンピュータ大国が、ソフトを作れずに立ち往生してしまう。

1.2 「工場のように作ればいい」という発想

王国の頭脳たちは考えた。職人が足りないなら、どうするか。答えは、彼らにとって自然なものだった——「ソフトウェア作りを、工場のように効率化すればいい」。日本は、自動車も家電も鉄鋼も、「ものづくりの工業化」で世界を制した国である。同じことを、ソフトウェアでもやればいい。職人の勘と徹夜に頼った手作りをやめ、誰がやっても同じ品質のものが、流れ作業で出てくる仕組みを作る。そうすれば、少ない人数で、たくさんのソフトが生み出せるはずだ。

こうして、壮大な国家プロジェクトが動きはじめる。名前を、シグマ計画(Σプロジェクト)という。

【用語解説】ソフトウェア(software)
コンピュータを動かすための「命令の集まり」、つまりプログラムのこと。機械そのもの(ハードウェア)に対して、目に見えない指示の部分を指す。表計算でも、銀行の勘定でも、すべてソフトウェアが裏で動いている。これを作る職人がプログラマーで、1980年代はこの職人が決定的に足りないと恐れられていた。

CH.02

ソフトウェアの「工業化システム」

あらすじ: 通産省とIPAが旗を振り、約150社が参画した官民総動員のプロジェクト。「SIGMA」という名前そのものに込められた「工業化」の思想と、土台に選ばれたUNIXの狙いを読み解く。

2.1 官民総動員の布陣

計画の旗振り役は、通商産業省(現在の経済産業省)だった。実際に現場を動かしたのは、その外郭団体である情報処理振興事業協会(IPA〈アイ・ピー・エー〉。当時の正式名称)。そこに、日本を代表するコンピュータメーカーやソフト会社——NEC、富士通、日立、東芝、三菱電機など、約150社が参画した。文字どおりの、官民総動員である。

2.2 名前に刻まれた「工業化」の思想

「シグマ(SIGMA)」という名は、ただの記号ではない。Software Industrialized Generator and Maintenance Aids の頭文字をつないだもので、日本語では「ソフトウェア生産工業化システム」と呼ばれた。

名前そのものが、計画の思想を語っている。「Industrialized(工業化された)」「Generator(生み出す装置)」。ソフトウェアを、工場のように、装置で生み出す。1985年から1990年までの5年間で、この夢を実現する——それがシグマ計画の設計図だった。

2.3 共通語としてのUNIX

土台に選ばれたのは、当時アメリカの大学や研究所で広がりはじめていた基本ソフト、UNIX(ユニックス)である。メーカーごとにバラバラだったコンピュータの「方言」を、UNIXという共通語に統一すれば、どの会社のプログラマーも同じ道具で仕事ができる。バラバラな部品を、共通規格でつなぐ——まさに工業化の発想だった。理屈は、美しかった。

【用語解説】UNIX(ユニックス)/OS(オーエス)
OSは「Operating System(オペレーティング・システム)」の略で、コンピュータを動かすための土台となる基本ソフトのこと。アプリはこのOSの上で動く。UNIXは1969年に米国で生まれたOSの一つで、頑丈で応用が利き、研究機関を中心に世界へ広がった。いまのスマートフォン(iOSやアンドロイド)やインターネットの裏側も、もとをたどればUNIXの考え方を受け継いでいる。シグマ計画は、このUNIXを日本流に整えて全国の共通基盤にしようとした。

CH.03

三位一体の王国

あらすじ: シグマOS・シグマステーション・シグマセンター。中央に巨大な倉庫を置き、全国の現場を通信網でつなぐ——整然とした設計の裏で、世界は逆の方向へ動き出していた。

3.1 三つの部品でできた仕組み

シグマ計画が描いた仕組みは、大きく三つの部品からできていた。

一つめは、シグマOS。UNIXをもとに、日本の業務に合わせて整えた共通の基本ソフトである。これを全国のプログラマーが使えば、道具がそろう。二つめは、シグマステーション。シグマOSが動く専用のワークステーション(WS〈高性能な業務用パソコンのこと。当時はまだ高価で珍しかった〉)。職人一人ひとりの作業机にあたる。

三つめが、計画の心臓部、シグマセンターである。これは全国の開発現場を結ぶ巨大なコンピュータで、ソフトの部品や開発の道具をここに集め、ネットワーク(シグマネットワーク)を通じて各社に配る。中央の倉庫から、全国の工場へ部品を供給する——そういう構想だった。

3.2 立派な設計、早い船出

センターがあり、各地に作業場があり、それを通信網でつなぐ。中央集権的で、整然としていて、いかにも国家プロジェクトらしい設計だった。1986年には、早くも最初のシグマワークステーションが完成している。動き出しは、決して遅くなかった。

「1985年に通産省主導のもとにシグマシステムプロジェクトが開始された。これは将来ソフトウェア技術者が大幅に不足することに対処するためのソフトウェアの品質と生産性の向上をめざすプロジェクトで、1986年にΣワークステーションを完成し、1990年に事業を終了した。」
— 情報処理学会 コンピュータ博物館「シグマシステムプロジェクト」より

短い記録の中に、すべてが詰まっている。立派な動機。早い船出。そして——わずか5年での、静かな「事業終了」。


CH.04

メインフレーマーたちの設計図

あらすじ: なぜ立派な計画が5年で店じまいになったのか。鍵は、計画を動かした「大型機を作る人々」の発想にあった。新しい道具UNIXを、古い時代の地図で使ってしまった顛末を追う。

4.1 主役は「大型機の人々」だった

なぜ、これほど立派な計画が、5年で店じまいになったのか。理由は一つではない。だが、後年の関係者の証言が、核心の一つを突いている。シグマ計画を動かしたのは、当時のコンピュータ業界の主役——大型汎用機(メインフレーム)を作ってきた人々だった。

メインフレームとは、一台で会社全体の処理をこなす、部屋いっぱいの巨大コンピュータである。何百人もが、一台の大型機に端末をつないで使う。「中央に強力な一台を置き、みんながそこへつなぐ」——この発想で、彼らは日本のコンピュータ産業を築いてきた。

シグマ計画の「中央にセンターを置き、全国がそこへつなぐ」という設計は、まさにこのメインフレーム文化の発想そのものだった。土台にUNIXという新しい技術を選びながら、その使い方の発想は、古い大型機の時代のままだったのである。

4.2 現場発の理想が、堅い箱に変わる

シグマシステムの技術委員会で中心を担った技術者は、のちにこう振り返っている。本来めざしていたのは、開発者一人ひとりが自由に道具を選んで使える、現場発の柔軟なネットワークだった。ところが計画が進むうちに、それは大型機を作る側の発想に飲み込まれ、中央集権的で堅苦しい、「使いにくいシステム」へと姿を変えてしまった、と。

4.3 降ろされた「日本独自」の旗

世界のUNIXもまた、皮肉だった。シグマが独自路線を進むあいだに、海の向こうでは UNIX の標準を決める団体——X/Open(エックスオープン)、UNIX International(ユニックス・インターナショナル。略してUI)、OSF(オー・エス・エフ。Open Software Foundation〈オープン・ソフトウェア・ファウンデーション〉の略)——が、それぞれの標準づくりを進めていた。1991年3月、シグマ側はついに、自前の独自仕様をあきらめ、これら国際標準に歩み寄ることで合意する。「日本独自のUNIX」という旗は、こうして静かに降ろされた。

【用語解説】メインフレーム(大型汎用機)
銀行や役所、大企業の基幹業務を一手に処理する、大型のコンピュータのこと。一台で膨大な計算をこなし、多くの端末がそこへぶら下がって使う「中央集権型」が特徴。1980年代の日本のコンピュータ産業は、このメインフレームを作るメーカーが主役だった。彼らの「強い中央が全部を仕切る」という発想が、そのままシグマ計画の設計にも色濃く反映された。

CH.05

250億円は、どこへ消えた

あらすじ: 国費およそ250億円。事業会社への引き継ぎ、独自路線の放棄、センター閉鎖、そして解散。バトンが渡されてから消えていくまでの、お金の行方をたどる。

5.1 破格の国費

シグマ計画には、巨額の国費が投じられた。総額で、およそ250億円といわれる(日本経済新聞1992年6月10日朝刊では、218億円と報じられている)。当時としても、ソフトウェア分野では破格の規模である。

その金は、何を生んだのか。

5.2 官から民へ、渡されたバトン

1990年、国家プロジェクトとしてのシグマ計画は予定どおり「終了」した。そして同年4月1日、その成果を引き継いで事業化するため、コンピュータメーカーやソフト会社あわせて50社が出資し、事業会社「シグマシステム」が設立される。資本金は22億3,000万円。バトンは、官から民へ渡されたかに見えた。

5.3 倉庫が閉じるまで

だが、バトンを受け取った会社の足取りは重かった。前章で触れたとおり、1991年3月には独自仕様をあきらめて国際標準へ歩み寄り、王国の旗印だった「日本独自のシグマOS」という看板は、実質的に意味を失っていた。1992年3月、計画の心臓部だったシグマセンター(計算機センター)の閉鎖が決まる。そして1995年、事業会社シグマシステムそのものが解散した。

倉庫は閉じられ、看板は下ろされ、会社はたたまれた。250億円を投じて生み出されたはずの「ソフトウェアを工業生産する装置」は、それを使って何か有用なソフトが大量に作られたという評判を、ほとんど残さないまま消えていった。ただし——後で触れるとおり、これを「丸ごとの無駄だった」と切り捨てるのも、また正確ではない。

「Σプロジェクトは、1985年から1990年にかけて進められた日本政府の国家プロジェクトである。(中略)総額で250億円(日本経済新聞1992年6月10日朝刊では218億円)の国家予算が投じられている。」
— ウィキペディア日本語版「Σプロジェクト」の記述を要約
あなたの会社にも、「鳴り物入りで始まったのに、いつのまにか『役目を終えた』ことになっている仕組み」はないだろうか。失敗と呼ばれないまま消えるものは、振り返られることもなく、学びも残さない。

CH.06

王国の年代記

1985年 通産省主導でシグマ計画(Σプロジェクト)開始。背景に「1990年に60万人、2000年に97万人のソフト技術者不足」の試算
1985年 推進役はIPA(情報処理振興事業協会)。NEC・富士通・日立・東芝など約150社が参画
1986年 最初のシグマワークステーションが完成
1990年 国家プロジェクトとしてのシグマ計画が予定どおり「事業終了」
1990年4月1日 成果を引き継ぐ事業会社「シグマシステム」設立(50社出資・資本金22億3,000万円)
1990年 同じ年、後にPC市場を変える日本語表示技術「DOS/V」がひっそり登場
1991年3月 シグマシステムが国際標準(X/Open・UI・OSF)への歩み寄りで合意。独自路線を放棄
1992年3月 計画の心臓部・シグマセンター(計算機センター)の閉鎖が決定
1995年 事業会社シグマシステムが解散

CH.07

同じ年に、こっそり生まれたもの

あらすじ: 国家が250億円を投じた計画が消えた1990年、補助金も号令もない一つの地味な技術「DOS/V」が日本のパソコンを世界へ開いた。この残酷な対比が照らす、「総力戦」という病。

7.1 日陰で生まれた小さな技術

歴史は、ときどき残酷な対比を用意する。

シグマ計画の失敗がはっきりした1990年。日本の役所と大企業150社が、250億円を投じた壮大なソフトウェア工業化の夢を静かにたたんでいた、まさにその年に——日陰で、ひっそりと、ある小さな技術が生まれていた。DOS/V(ドスブイ)である。

DOS/Vとは、特別なハードを使わなくても、ふつうの海外製パソコン(IBM PC〈アイ・ビー・エム・ピーシー〉という世界標準の機種)の上で、ソフトウェアの力だけで日本語を表示できるようにした技術だ。それまで日本では、日本語を出すには専用の高価な国産パソコンが必要だった。DOS/Vは、その壁を、追加の機械ではなく一つのソフトで取り払ってしまった。

7.2 号令なき技術が、世界を開く

国家が大号令をかけ、150社を束ね、250億円を注いだ計画は、何も残さずに消えた。一方、誰も「元年」と叫ばず、補助金もつかなかった一つの地味な技術は、その後の日本のパソコンを世界標準へと一気に開いていった。

7.3 「総力戦」という病、ITゼネコンの原型

ここに、王国のもう一つの病が見える。シグマ計画は、その後も長く語り継がれる「日本の国家IT戦略は、なぜ失敗するのか」という問いの、最初の有名な見本になった。中央が旗を振り、関係する大企業を全部集め、立派な構想を掲げ、巨額の予算を投じる——その「総力戦」の形そのものが、動きの速い技術の前ではかえって重荷になる。多くの会社の顔を立て、全員の合意を取りつけているあいだに、世界は次の場所へ移ってしまうのだ。このやり方は、のちに「ITゼネコン」と呼ばれる、巨大プロジェクトを大企業が束ね、下請けに重層的に発注していく構造の、遠い原型でもあった。みんなで大きく、ていねいに、公平に——その美徳が、そのまま遅さの原因になる。

【用語解説】DOS/V(ドスブイ)
1990年に登場した、パソコンで日本語を扱うための技術。それまで日本語表示には専用の機械(漢字を出すための特別な部品)が必要だったが、DOS/Vはそれをソフトウェアだけで実現した。これにより、世界標準の海外製パソコンが日本でもそのまま使えるようになり、価格競争が起きて、パソコンは一気に安く・身近になった。国家プロジェクトではなく、現場の技術が世界を変えた好例である。
「関係者全員が納得するまで動かない」大型プロジェクトに、心当たりはないだろうか。慎重さと公平さは美徳だが、外の変化はこちらの合意を待ってはくれない。あなたの組織の「シグマセンター」——立派だが、誰も使いこなせていない中央の仕組みは、いま何だろう。

CH.08

工業化できなかったもの

あらすじ: 動機は正しく、人々は優秀だった。それでもなぜ失敗したのか。「ソフトウェアはものづくりではない」という一点と、残された遺産、そしていまも私たちの机に置かれた問いについて。

8.1 動機も人も、間違っていなかった

シグマ計画の物語を、「お役所仕事の失敗例」の一言で片づけるのは、たやすい。だが、それは公平ではない。

動機は、まっとうだった。ソフトウェア技術者が足りなくなる、という予言は、決して的外れではなかった。実際、日本のIT人材不足は、その後もずっと続く深刻な問題であり続けている。問題を見つけた目は、確かだったのだ。集まった技術者も、官僚も、企業の人々も、みな優秀で、まじめで、本気で日本のソフトウェアの未来を案じていた。では、なぜ、うまくいかなかったのか。

8.2 ソフトウェアは、ものづくりではなかった

最大の誤算は、ソフトウェアを「ものづくり」と同じだと思ったことにある。鉄やネジは、規格を決めて流れ作業にすれば、品質も量も上がる。同じものを、大量に、正確に作る——それが工業化だ。だがソフトウェアは、同じものを大量に作る仕事ではない。毎回ちがう問題を、毎回ちがうやり方で考えて解く、知的な仕事だった。工場のラインに乗せられるものではなかったのだ。「装置で生み出す(Generator)」という発想そのものが、ソフトウェアの本質と、すれ違っていた。

8.3 誰も悪くない、だから誰も学ばない

そして王国は、得意なやり方から離れられなかった。ものづくりで成功した「中央集権・総力戦・全員参加」のやり方を、動きの速い技術の世界にそのまま持ち込んだ。一つひとつの判断は、すべて合理的だった。役所は合理的に、産業の未来に備えた。企業は合理的に、国家プロジェクトに参加した。技術者は合理的に、与えられた仕様で最善を尽くした。誰も、間違ったことはしていない。だから——誰も、責任を問われなかった。そして、深くは学ばれなかった。

8.4 残った種と、まだ解かれていない問い

ただし、この物語にも続きがある。シグマ計画が日本に持ち込んだUNIXという共通語は、計画そのものが消えたあとも、技術者たちのあいだに種として残った。日本がやがてインターネットやオープンな技術へ向かうときの、地ならしの一つにはなったのだ。早すぎた、ずれていた挑戦は、それでも完全な無駄ではなかった。まいた畑とはちがう畑で、別の誰かが、ずっとあとに小さな実を拾っただけだ。

国家プロジェクトでも、会社の新規事業でも、本当に難しいのは、お金でも技術でもない。「自分たちの一番の得意技が、いま目の前の相手には通用しない」と認めることだ。成功体験ほど、手放しがたいものはない。シグマ王国は、ものづくりの王国だった。だからこそ、ものづくりにできないものがある、という事実だけは、最後まで工業化できなかった。そして、足りないと予言された技術者は、いまも足りない。王国が解こうとした問いは、装置ではなく、いまも私たち一人ひとりの肩の上に、静かに残されている。


その王国は、工場を建てようとした。

ソフトウェアという、目に見えないものを、
鉄やネジのように、流れ作業で生み出す工場を。
設計図は美しく、出資者は集まり、倉庫の礎は据えられた。

だが、ラインに乗せようとした瞬間、
それは指のあいだから、すっと抜け落ちていった。
ソフトウェアは、ものではなく、考えだったのだ。
考えは、型に流し込むことができなかった。

倉庫は閉じられ、看板は下ろされた。
250億円の夢は、評判も残さず、暦の上から消えていった。
同じ年、誰も見ていない場所で、
一つの小さな技術が、世界を静かに開けていたとも知らずに。

足りないと予言された職人は、いまも足りない。
工業化できなかったその問いだけが、
時代を越えて、まだ私たちの机の上に置かれている。

―― 処理、未完了

参考・引用資料
・ 情報処理学会 コンピュータ博物館「【通産省】ソフトウェア開発効率化のシグマシステムプロジェクト開始」
https://museum.ipsj.or.jp/computer/main/0075.html
・ ウィキペディア日本語版「Σプロジェクト」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Σプロジェクト
・ 日経クロステック「『Σ計画』失敗が判明した1990年、DOS/Vがひっそり誕生」
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00215/080700039/
・ 週刊BCN+「<SIerの憂鬱>第25回 シグマプロジェクトの本質」(2007年10月1日)
https://www.weeklybcn.com/journal/serial/detail/20071001_47620.html
・ 週刊BCN+「<SIerの憂鬱>第26回 総括なきシグマプロジェクト」(2007年10月8日)
https://www.weeklybcn.com/journal/serial/detail/20071008_47621.html
・ yomoyomo「シグマはどこへ消えた?」(技術評論コラム、2001年)
https://www.yamdas.org/column/technique/sigma.html
・ Tech Monitor「JAPAN INC’s SIGMA PROJECT ENLISTS UNIX TO SOLVE THE APPLICATIONS BACKLOG」
https://www.techmonitor.ai/hardware/japan_incs_sigma_project_enlists_unix_to_solve_the_applications_backlog
・ 日本経済新聞 1992年6月10日朝刊(予算規模218億円の報道。上記各資料経由で参照)