Yahoo! BB王国の興亡
情報処理王国史 外典第三十九巻
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Yahoo! BB王国の興亡

赤い袋が日本のインターネットを変えた1000日と22年

YAHOO! BB ADSL 2001
この記事について
本稿は、2001年から2024年にかけての日本のブロードバンド普及史を、実在する事実・統計・報道をもとに記述したものです。組織や人物の行動を風刺的・文学的に描写する部分を含みますが、史実の歪曲を意図したものではありません。登場する企業・団体・人物はすべて実在します。
CH.01

王国以前の闇

2000年、日本はインターネットの荒野だった。

パソコンを持つ家庭はそれなりに増えていたが、接続は「ダイヤルアップ」と呼ばれる方式が主流だった。電話線を使って1回線ずつ手動でつなぐこの仕組みでは、メールを1本送るたびに「ピーガガガッ」という音が鳴り、その間は電話が使えなくなる。しかも料金は従量制、つまりつないでいる時間ぶんだけ電話代がかかった。

【用語解説】ダイヤルアップ接続
家庭の一般電話回線を使い、その都度モデムから電話をかけてインターネットに接続する方式。「つなぎっぱなし」は不可能で、長時間つなぐと電話代が天文学的になることがあった。現在のような「常時接続」「定額制」とは根本的に異なる。

ADSLという技術は存在していた。同じ電話線を使いながら、データと音声を別の周波数に分けることで、「電話しながらネットが使える」「月額定額で使い放題」を実現する技術だ。1999年には「東京めたりっく通信」が都市部でサービスを始め、NTT東日本・西日本も「フレッツADSL」を本格展開していた。しかし料金は高かった。ADSLとプロバイダを合わせると月額5,000〜6,000円。一般家庭にとっては「贅沢な通信費」の領域だった。

その闇に、赤い袋を持った男が現れた。


CH.02

孫正義、宣戦布告

孫正義は当時、ITバブル崩壊の直撃を受け、グループ全体の含み損が一時1兆円を超えていたとも言われた。誰もが「孫正義の時代は終わった」と囁いていた2001年、彼は全く異なる戦場へ足を踏み入れた。

2001年6月19日、孫正義は「Yahoo! BB」の発表会見に立った。ADSLとプロバイダをセットにして月額わずか2,280円で提供する、という宣言だった。

当時の業界相場の半値以下である。

「価格破壊」という言葉は当時も使われていたが、これは価格の破壊というより業界秩序そのものへの宣戦布告だった。NTTはインフラを握り、プロバイダ各社は横並びの料金を維持し、ユーザーは選択肢のない市場でじっとしていた。そこに「月額2,280円で常時接続」という爆弾が投げ込まれた。

同年9月1日、Yahoo! BBのADSLサービスは正式に開始された。「ブロードバンド」は2001年のユーキャン新語・流行語大賞トップテンに選出され、孫正義は同賞に選ばれた。

【用語解説】ADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line)
非対称デジタル加入者回線とも呼ばれる。既存の電話用銅線を使いながら、音声とデータを異なる周波数帯域で同時通信する技術。「常時接続・定額制」を実現したが、電話局からの距離によって速度が落ちる欠点がある。後に光ファイバー(FTTH)に主役の座を譲った。
【俯瞰メモ】価格崩壊の連鎖
Yahoo! BBの参入で起きたのは単なる値下げではなく、「業界全体の値付けロジック」の崩壊だった。競合他社がYahoo! BBに追従して値下げすれば利益が削れ、追従しなければユーザーが流出する。その構造的ジレンマが市場全体の価格水準を3〜4年以内に半値以下へと引き下げた。ユーザーにとっては朗報だが、中小プロバイダには廃業ラッシュが訪れた。「価格破壊」とは誰かの利益構造を壊すことでもある。

CH.03

パラソル隊の大進軍

サービスの価格が安くても、知らなければ申し込めない。ここで孫正義が打った手が、日本のマーケティング史に残る奇策だった。

「パラソル隊」——赤と白のパラソルを持ったスタッフが全国の駅前・量販店・商店街に出動し、モデムを入れた赤い紙袋を通行人に無料で手渡す戦略だ。「これを持ち帰って申し込めばすぐにADSLが使える」というわけだ。

ソフトバンクは「最初は赤字になってもいいから、どんどん顧客獲得コストをかける」と決断した。数十社の代理店に委託し、北から南まで数千箇所に及ぶ配布拠点が展開された。配布したモデムの総数は数百万台と言われる。

【用語解説】モデム(Modem)
コンピュータのデジタル信号を電話線などのアナログ信号に変換(または逆変換)する機器のこと。ADSL時代には、この機器が自宅と電話局をつなぐ「玄関」の役割を果たした。Yahoo! BBはこのモデムを無料で配布することで、ユーザーの初期費用ゼロを実現した。
【俯瞰メモ】なぜ「無料配布」が成立したのか
モデム1台の製造原価は当時数千円程度。ソフトバンクBBは「1ユーザーが12ヶ月継続すれば回収できる」という計算で、先行投資として数百万台を配った。加入者1人あたりの獲得コストが高くても、月額料金の積み上げで逆転できる——サブスクリプション型ビジネスの先駆けとも言える発想だ。実際この戦略は機能し、損益分岐を超えた後は一気に黒字化した。

この「赤い袋」は社会現象になった。電車に乗っていると、隣に座った人が赤い袋を持っていた。スーパーの出口で手渡された。「見覚えがある」という人は今でも多い。

結果は劇的だった。サービス開始後わずか6ヶ月で約49万人が加入。2002年9月には100万人を突破し、2004年には加入者数が国内のADSL事業者でトップに躍り出て、2005年12月時点でもADSL加入者数日本一を維持した。


CH.04

NTTという名の城壁

ただし、すべてが順風満帆だったわけではない。

Yahoo! BBがADSLを提供するには、NTT東日本・西日本の電話回線インフラを借りなければならない。ところがNTTは当初、ライバル企業への設備開放に積極的ではなかった。申請から実際の開通までに数ヶ月かかることも珍しくなく、「開通待ち」の顧客が長蛇の列をなした。

孫正義は公の場でNTTを名指しで批判し、政府のIT戦略会議でも「NTTはインフラを独占している」と声を上げた。当時のNTTは政府が株式の約46%を保有する半公的企業であり、「国策」への協力には一定の圧力が働いた。

【用語解説】ダークファイバー(Dark Fiber)
敷設されているが使われていない光ファイバー線のこと。NTTが全国に張り巡らせた光ファイバー網の一部は未使用のまま眠っており、これを他の通信事業者に貸し出すことで競争環境を整備しようとする政策論争が2000年代に起きた。

総務省は競争促進の立場からNTTへの指導を強め、接続ルールも整備されていった。Yahoo! BBの参入効果は業界全体に波及し、ADSL+プロバイダの月額料金は5,000〜6,000円の水準から3,000〜4,000円へと一気に下落。2004年には日本全体のADSL加入者が1,000万人を突破した。

「Yahoo! BBの参入が日本のブロードバンドの価格水準を大きく引き下げ、普及加速の起爆剤となったことは疑いない。それまで月額5,000〜6,000円だったADSL接続料金が、2,000〜3,000円台まで一気に下落した。」
— 日経クロステック「2001年 ブロードバンドの価格破壊,激しい競争を呼び起こす」(2009年)より要約

CH.05

451万件の亀裂

絶頂期は、内側から崩れた。

過小発表から正式謝罪へ——3日間の沈黙

2004年2月24日、ソフトバンクBBは緊急会見を開いた。しかしその時点で公表した漏洩件数は「242人」だった。3日後の2月27日、孫正義本人が改めて会見に臨み、衝撃の数字を告げた。

「Yahoo! BBのお客様の個人情報が、大量に流出しました。深くお詫び申し上げます」

流出した顧客情報は、451万7,039件。氏名・住所・電話番号・メールアドレス・申込日など。Yahoo! JAPAN IDを含む情報も漏れていた。当時としては「日本最大規模の個人情報漏洩事件」として記録された。

内部者による不正取得と恐喝

犯人は内部者だった。元ソフトバンクBB社員および代理店関係者が、管理体制の甘さを突いてデータベースに不正アクセスし、顧客情報を持ち出した。漏洩したデータは複数人の手を経て、ソフトバンクへの恐喝に使われた。要求額は30億円。「情報を公開されたくなければ払え」という脅しだった。

警察は捜査を進め、右翼団体「新誠日本協議会」の元会長ら複数名を恐喝未遂容疑で逮捕した。

孫正義は謝罪の証として、全会員への500円金券の送付と役員報酬の大幅削減を発表した。「お詫びが500円か」という批判は当然巻き起こったが、451万通の金券を送るコストだけでも2億円を超える。その後、被害を受けた顧客が集団訴訟を起こし、2006年には「500円では足りない」という裁判所の判断も示された。

「ソフトバンクBBは、450万件超えるYahoo! BBの個人情報漏洩を認め謝罪。孫正義社長は2004年2月27日に記者会見を開き、451万7,039件の顧客情報が流出したことを正式に認めた。」
— Impress Internet Watch(2004年2月27日)より要約

CH.06

ADSLから光へ、王国の変容

個人情報漏洩事件で信頼は傷ついたが、Yahoo! BBは生き続けた。

しかし技術の潮流は動いていた。ADSLは電話局から距離が離れると速度が落ちる宿命がある。対して光ファイバーを使った「FTTH(光回線)」は、距離に関係なく安定した高速通信が可能だ。NTTは「フレッツ光」を本格的に普及させはじめ、2006年度にはDSL(ADSL)の契約数が初めて前年比で減少に転じた。

【用語解説】FTTH(Fiber To The Home)
光ファイバーを各家庭まで引き込む通信方式。一般に「光回線」と呼ばれる。ADSLが既存の電話線を流用したのに対し、FTTHは新たに光ファイバーを敷設する。距離によって速度が落ちることがなく、ADSLより高速・安定した通信が可能。2008年度に日本でFTTHの総契約数がDSLを超えた。

2008年度には、FTTH(光回線)の総契約数がDSLを追い越した。Yahoo! BBも独自の光回線サービスを展開したが、NTTのフレッツ光との競争は厳しく、2010年3月には独自光回線の新規受付を終了。以降はNTTの回線を使う形に切り替わっていった。

かつてNTTのインフラを「開放しろ」と迫った孫正義のサービスが、NTTのインフラに依存して生き延びる——歴史の皮肉はいつも、こういう形でやってくる。


CH.07

静かなる終幕

2019年2月、Yahoo! BB ADSLは新規申し込みの受付を終了した。

理由は単純だった。「データ通信量の増大に伴う光回線の主流化」と「保守素材の枯渇と設備の老朽化」。一度敷いた電話線のインフラは永遠には使えない。維持費は嵩み、ユーザーは減り続けた。

そして2024年3月31日、Yahoo! BB ADSLは静かにサービスを終了した。2001年9月に始まり、22年と6ヶ月の歴史に幕を下ろした。

赤い袋はもう街角に現れない。パラソル隊は解散した。


CH.08

王国の年代記

[画像挿入:Yahoo! BB / ブロードバンド革命 年代記]

1999年9月 東京めたりっく通信、日本初の商用ADSLサービス開始(都市部限定)
2001年6月19日 ソフトバンクBB、「Yahoo! BB」を月額2,280円で発表
2001年9月1日 Yahoo! BB ADSLサービス正式開始。パラソル隊が全国展開
2001年 「ブロードバンド」ユーキャン新語・流行語大賞トップテン入り
2002年9月 Yahoo! BB加入者100万人突破
2004年 日本全体のADSL加入者1,000万人突破
2004年2月24日 ソフトバンクBBが緊急会見(この時点では242人と過小発表)
2004年2月27日 孫正義が会見、451万7,039件の漏洩を正式発表・謝罪。全会員に500円金券を送付
2005年12月 Yahoo! BB、ADSL加入者数で日本一を達成
2006年度 DSL契約数が初めて前年比減少に転じる
2008年度 FTTH(光回線)の総契約数がDSLを超える
2019年2月 Yahoo! BB ADSL、新規受付を終了
2024年3月31日 Yahoo! BB ADSLサービス終了(22年と6ヶ月の歴史に幕)

CH.09

誰も悪くなかった、という結論

この物語には明確な悪役がいない。

NTTはインフラを守る責任があった。国有に近い企業として、無秩序な開放は電話サービスの安定にも関わる。慎重にならざるを得ない事情は理解できる。

孫正義は「安くて速いインターネットをすべての家庭に」という大義を掲げた。その価格破壊は現実のものとなり、日本のブロードバンド普及を確実に加速させた。しかし急成長の陰で、個人情報管理の甘さが露呈した。

政府は競争促進を旗印に動いたが、NTT完全分割には踏み込めなかった。インフラは公共財でもあるからだ。

ユーザーは安い料金で常時接続を手に入れた。ただし、自分の個人情報は流出した。

全員が最善を尽くしていたのかもしれない。全員が何かを見落としていたのかもしれない。誰も悪くない調整問題——それが複雑な現実の正直な名前だ。

Yahoo! BBがまいた赤い袋の種は、今日あなたが使っている光回線のどこかに眠っている。

あなたは「赤い袋」を覚えているだろうか。駅前で受け取った人、スーパーの出口で手渡された人、あの頃のインターネット初体験——それぞれの記憶があるはずだ。
— 読者参加フック:あなたの記憶も、この物語の一部です

赤い袋は、街角から消えた。

パラソルの下で渡されたモデムは、棚の奥で眠っている。

あの頃「常時接続」は夢の言葉だった。

今、誰もそれを夢とは呼ばない。

夢は、インフラになった。


―― 回線 確立

参考・引用資料
・ソフトバンクニュース「22年の歴史に幕。赤い袋で一世を風靡した『Yahoo! BB ADSL』が切り拓いた日本のブロードバンド」2024年3月25日
・日経クロステック「2001年 ブロードバンドの価格破壊,激しい競争を呼び起こす」2009年6月23日
・Yahoo! JAPAN公式プレスリリース「Yahoo! BB ADSL接続料が月額990円から」2001年6月19日
・ITmedia NEWS「Yahoo!BBで、451万人の情報流出が判明」2004年2月27日
・@IT「ヤフーBB全会員に500円、情報流出事件で孫氏が謝罪」2004年2月28日
・Impress Internet Watch「ソフトバンクBB、450万件超えるYahoo! BBの個人情報漏洩を認め謝罪」2004年2月27日
・総務省「情報通信白書 令和3年版:通信インフラ」2021年
・早稲田大学RIIM「日本のブロードバンドビジネス発展の歴史 ─本命のFTTHへ─」