公選法凍結王国の興亡
情報処理王国史 外典第五十七巻
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公選法凍結王国の興亡

選挙が始まったら、ホームページを止めよ

NET SENKYO KOSENHO
この記事について
本記事は実際の政治的・技術的背景に基づいたブラックコメディ仕立ての読み物です。引用・参照はすべて実在の法令・文献・報道に基づきますが、語り口はフィクション的表現を含みます。
CH.01

昭和25年、王国に法典が降りた

1950年(昭和25年)4月、日本に一つの法典が誕生した。

公職選挙法――正式には「昭和25年法律第100号」。民主主義という新しい価値観のもと、選挙を公正に運営するための規則を定めた、戦後日本の根幹を成す法律である。

その条文には、選挙運動で使える「文書図画(ぶんしょとが)」の種類と数量が細かく定められていた。ビラは何枚まで、はがきは何通まで、看板は何枚まで——広告産業が発達した時代に、金持ちが金で選挙を買えないよう、配布できる印刷物の上限を厳密に縛ったのだ。

当時は合理的な規制だった。

1950年に「インターネット」は存在しない。「ウェブサイト」という概念もない。電子メールも、ツイッターも、フェイスブックも存在しない。トランジスタラジオが普及し始めた頃の話である。

【用語解説】文書図画(ぶんしょとが)
「文字または符号や形を使って、物体の上に記載された意思表示」のこと。公職選挙法における規制の主な対象。紙に印刷したビラ・はがき・看板などが典型例。2013年の法改正以前は、裁判所の判例により、コンピュータのディスプレイに表示された文字や画像も「文書図画」と解釈されていた。つまりウェブサイトも、選挙運動用の印刷物と同じ扱いになった。

法律は完成し、王国に刻み込まれた。

このとき誰も知らなかった。この法典が、63年後の日本において、首相のホームページを凍結させる道具になるとは。


CH.02

ディスプレイも「文書図画」である

時は1990年代。インターネットが日本社会に広がり始めた。

候補者たちは喜んだ。「これは便利だ。ウェブサイトを作れば、ポスターより多くの人に政策を伝えられる。費用もほとんどかからない」

しかし、総務省(当時は自治省)は難しい顔をした。

公職選挙法の「文書図画」——この解釈が問題だった。裁判所の判例によれば、コンピュータのディスプレイに表示されるテキストや画像も、「物体の上に記載された意思表示」として「文書図画」に当たる可能性がある。そして選挙運動に使える文書図画の種類・数量は厳しく制限されている。

1996年、自治省は解釈を示した。

「選挙運動のためのウェブサイトについては、公職選挙法の規定との関係を検討する必要があります」

要するに、はっきりとは言えないが、グレーだということだ。

グレーは怖い。違反かもしれないものには手を出しにくい。選挙管理委員会への問い合わせに対しても、明確な「OK」は返ってこない。

候補者の多くは、安全側に倒した。

「選挙期間中はホームページの更新をやめましょう」

こうして、日本の選挙は「デジタル空白期」を迎えることになる。選挙公示の瞬間、候補者のウェブサイトは凍結される。ブログも止まる。SNSのタイムラインも、選挙が終わるまで静止する。

候補者が選挙中に最も「発言できない」媒体は、インターネットだった。


CH.03

ホームページを凍結せよ

2000年代、この「慣行」は定着した。

選挙公示日の前日、候補者の事務所では一つの儀式が行われた。

「よし、更新を止めよう」

スタッフが最後の投稿をし、管理画面からログアウトする。公示期間中は、ホームページはそのまま存在するが、一切更新してはならない。ブログの新記事は書けない。誤字を見つけても直せない。プロフィール写真を変えることもできない。

2006年頃には、Twitterが日本でも普及し始めた。2008年には「ツイッター選挙」という言葉が欧米で生まれていた。しかし日本の候補者は——

「選挙期間中のツイートは禁止です」

選挙スタッフが候補者のスマートフォンを預かり、選挙期間中は「ネット断ち」を徹底させた。

有権者側も困惑した。「候補者の最新の考えを知りたいのに、ホームページが選挙前から更新されていない」。インターネットで情報を調べようとすると、更新の止まったページだけが残っている。まるでデジタル世界に「廃墟」が立ち並ぶかのようだった。

インターネットは今や多くの国民が日常的に利用する社会インフラであり、誰もが無料で発信できるという性質から、資金力に左右されにくい公平な情報伝達手段として注目されてきた。さらに、欧米諸国や韓国などではすでにネット選挙が一般化しており、こうした動きに日本も遅れを取るわけにはいかないという社会的要請も高まっていた。
— 総務省「インターネット選挙運動の解禁に関する情報」より

王国は、自らのデジタル封鎖を、「公正な選挙のため」と呼んだ。


CH.04

15年間の「もうすぐ解禁」

解禁の動きは、早くから始まっていた。

1996年、新党さきがけが自治省にインターネット選挙活動についての質問書を提出した。この頃からすでに「おかしい」という声は存在した。

1997年5月、超党派の国会議員が「インターネット政治研究会」を発足させた。与野党を超えた議員が集まり、解禁に向けた議論を始めた。

1998年6月、民主党がネット選挙解禁を盛り込んだ公選法改正案を国会に提出した。しかし、成立しなかった。

2001年、総務省が「IT時代の選挙運動に関する研究会」を設置した。翌2002年8月に報告書が出た。内容は「ウェブページの更新は選挙期間中も解禁すべき、ただしメール送信は引き続き禁止」という提言だった。

——しかし、法改正は実現しなかった。

2009年、民主党が政権を奪取した。その公約には「ネット選挙の解禁」が明記されていた。インターネットを活用したオバマ大統領の選挙戦(2008年)が世界的な話題になった直後のことだ。日本でも「変化の時代」の空気が流れた。

——しかし、やはり法改正は実現しなかった。

民主党政権は2012年末に終わり、ネット選挙解禁の公約は果たされないまま退場した。

【用語解説】衆議院解散と廃案(はいあん)
日本では衆議院が解散されると、審議中のすべての法案が廃案(なかったこと)になる。ネット選挙解禁の法案も、成立直前まで進みながら解散のたびに廃案を繰り返した。「法案を出した時期が悪かった」という「誰も悪くない」廃案が、このテーマでは珍しくなかった。

この15年間、「もうすぐ解禁になる」という言葉が繰り返された。研究会が発足し、報告書が出て、法案が提出され、そして廃案になる。この繰り返しが、実に10回以上に及んだ。


CH.05

超党派の夜、全会一致で可決

2012年末、自民党が政権に返り咲いた。

2013年春。次の選挙は夏の参院選だ。ここで各党が動いた。ネット選挙解禁は、もはや与野党対立の問題ではなかった。全政党が賛成していた。争点は「いつやるか」だけだった。

2013年4月19日——

改正公職選挙法が、参議院本会議で全会一致で可決・成立した。

与党・野党・無所属、すべての議員が賛成した。「反対」は一票もなかった。

1998年の最初の法案提出から15年、1950年の公選法制定から63年を経て、ようやく日本の選挙からインターネット禁止令が解かれた。

同年4月26日に公布、5月26日に施行。そして2013年7月21日——第23回参議院議員通常選挙が、日本初の「ネット選挙」として執行された。

候補者はホームページを更新できる。ツイートができる。フェイスブックに投稿できる。選挙運動期間中に、インターネットで有権者に直接語りかけられる。

当たり前のことが、ようやく当たり前になった。

インターネット選挙運動の解禁に係る公職選挙法の一部を改正する法律が2013年4月19日に成立し、同年7月21日執行の第23回参議院議員通常選挙から、ウェブサイト等及びSNSを使った選挙運動が一般有権者を含めて全面解禁された。
— 総務省「インターネット選挙運動解禁(公職選挙法の一部を改正する法律)の概要」より要約

CH.06

王国の年代記

1950年4月15日 公職選挙法(昭和25年法律第100号)公布。「文書図画」の配布規制を定める。インターネットは存在しない
1993年頃 インターネットの商業利用が日本で始まる。候補者がウェブサイトを作り始める
1996年 新党さきがけが自治省に質問書を提出。ネット選挙の法的グレーゾーンが表面化。選挙中のHP更新を自粛する慣行が広まり始める
1997年5月 超党派議員「インターネット政治研究会」が発足。早くも解禁に向けた議論が始まる
1998年6月 民主党がネット選挙解禁を盛り込んだ公選法改正案を提出。廃案となる
2001年 総務省「IT時代の選挙運動に関する研究会」発足
2002年8月 総務省研究会が報告書発表。「ウェブ更新は解禁、メール送信は引き続き禁止」を提言→法改正に至らず
2006〜2008年 Twitterが日本でも普及。選挙期間中のツイートも禁止の慣行が定着。米国オバマ選挙戦(2008年)がネット活用で世界的話題に
2009年 民主党政権が発足。ネット選挙解禁を公約に掲げるが、任期中(2012年末まで)に実現せず退場
2013年4月19日 改正公職選挙法が参院本会議で全会一致で可決・成立。公選法制定から63年目
2013年5月26日 改正法施行
2013年7月21日 第23回参院選。日本初のネット選挙として執行。投票率52.61%(前回2010年57.92%から5.31ポイント低下)

CH.07

解禁されても、投票率は下がった

2013年7月21日の第23回参院選。

ネット選挙解禁の効果に、多くの人が期待した。ネットの活用が選挙の透明性を高め、若者の政治参加が増え、投票率が上がるのではないかと。

結果は——投票率52.61%。

前回2010年の参院選(57.92%)より、5.31ポイント低下した。

もちろん、これだけでネット選挙の効果を否定することはできない。投票率はさまざまな要因に左右される。解禁がなければさらに下がっていたかもしれない。実際、総務省の調査では「ネット選挙解禁がなければ投票率はさらに低かったのではないか」という分析もある。

しかし「劇的な変化」は起きなかった。

15年間の議論と、63年間の封鎖を経て、ようやく解禁されたネット選挙。しかし有権者の行動は、それほど劇的には変わらなかった。

理由の一つは、解禁後も多くの制限が残ったことだ。電子メールでの選挙運動は候補者・政党にのみ許可され、一般有権者はメールで「○○候補に投票を」と送ることができない。解禁は「完全な自由」ではなかった。

【用語解説】投票率
有権者のうち実際に投票した人の割合。参院選は衆院選より低い傾向がある。2013年の52.61%は、解禁直前の期待値とのギャップが話題になった。ネット選挙解禁の効果は「劇的」ではなく「じわじわ」と現れるという見方もある。

CH.08

10年後の王国 ― SNSが選挙を動かし始めた

解禁から10年以上が経った2024年。日本の選挙風景は、少しずつ変わり始めた。

2024年10月の衆院選では、各党のSNS活用がこれまでとは別次元に達した。YouTube・TikTokでのショート動画とライブ配信が当たり前になり、特に国民民主党・参政党・れいわ新選組は、テレビよりもネットで支持を広げ、議席を大きく伸ばした。候補者が深夜にYouTubeでライブ配信しながら有権者のコメントにリアルタイムで答える——そんな光景は、2010年代前半には存在しなかった。

インスタグラムの活用は前回比17%増。「政治家のSNSアカウントをフォローしている」という若年層も増え、政治情報の入手経路として「テレビ・新聞よりネット」を選ぶ世代が着実に厚くなった。

一方で、影の部分も見え始めている。フェイクニュースや誹謗中傷の拡散、AI生成による偽動画の出回り、対立を煽るアルゴリズムの問題——2013年の法改正では想定していなかった「新しいグレーゾーン」が次々と生まれた。「選挙期間中にインターネットで何を言っていいか」という問いは、解禁から10年経っても、まだ答えが出ていない。

法律は技術に追いつかない。1950年から2013年の63年間がそうだったように、2013年以降もまた、技術は法律の想定を超え続けている。


CH.09

誰も悪くない、ただ法律が63年前だっただけ

この話には、誰も「悪役」が登場しない。

総務省は悪くない。法律の解釈を杓子定規に当てはめただけだ。グレーゾーンを「白」と宣言できる権限は、総務省にはなかった。

国会議員も悪くない。法案は何度も提出された。解散・廃案のたびに悔しがった議員が大勢いた。「早く解禁したい」という意見は与野党を問わず存在した。

候補者も悪くない。違反の可能性があるならやめておく——その判断は合理的だ。リスクを取って「ネット選挙先人」になるメリットはなかった。

有権者も悪くない。ルールの範囲内でしか行動できなかった。

悪かったのは、1950年の時点で存在しなかった技術を想定していなかったこと——ではなく、それを想定できなかったことを責められないという事実そのものだ。

法律は時代の産物だ。そして技術は、法律の想定を超えるスピードで進む。

この「ズレ」こそが、王国に63年間の封鎖をもたらした。誰かが悪意を持って封鎖したわけではない。古い法律と新しい技術の間に生まれた「隙間」を、誰も埋めなかっただけだ。

2013年の全会一致は、その隙間をようやく埋めた瞬間だった。

しかし同時に問わなければならない。今もどこかで、1950年代に書かれたルールが、2020年代の技術の首を絞めていないだろうか。


公示の朝、ホームページを止めた候補者の話を、もう聞かなくてよくなった。
Twitterのタイムラインが凍りつく選挙を、有権者は経験しなくてよくなった。
誤字を見つけても直せないホームページを、スタッフは黙って見つめなくてよくなった。
それだけのことが、63年かかった。
誰もが「おかしい」と思っていた。
誰も止めるルールがなかった。
民主主義は、自分自身の手続きで動く。
ゆっくりと、しかし確実に。
―― 接続 解禁

参考・引用資料
総務省「インターネット選挙運動の解禁に関する情報」(https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo10.html)
総務省「インターネット選挙運動解禁(公職選挙法の一部を改正する法律)の概要」(https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo10_index.html)
国会「公職選挙法の一部を改正する法律(2013年4月26日公布)」
日本経済新聞「ネット選挙が全面解禁 改正法成立、夏の参院選から」(2013年4月19日)
公益財団法人明るい選挙推進協会「voters第16号 特集 ネット選挙運動解禁と日本の政治」(2013年10月)
Wikipedia「インターネット選挙運動」