マウントゴックス王国の興亡
渋谷のカードゲーム両替所が、世界一のビットコイン取引所になり、そして消えた話
本稿は、東京都渋谷区に本社を置き、2013年に世界のビットコイン取引量の約7割を扱ったとされる暗号資産(当時は「仮想通貨」と呼ばれた)取引所、株式会社MTGOX――通称マウントゴックス――の興亡を、歴史書体裁のブラックコメディとして再構成したものです。年月日・人名・法令名・統計値は公開資料・報道・裁判資料に基づきますが、王国・儀式・年代記といった語り口はフィクション的演出を含みます。
カードゲームの両替所
王国は、暗号通貨のためではなく、トレーディングカードゲームのために建てられた。
2006年末、米国のプログラマ、ジェド・マケーレブ(Jed McCaleb)は、「マジック:ザ・ギャザリング オンライン」(Magic: The Gathering Online、通称MTGO)というオンラインカードゲームのプレイヤー同士が、手持ちのカードを交換できる取引所サイトを構想した。2007年1月、彼はドメインmtgox.comを取得する。名前は「Magic: The Gathering Online eXchange」――マジック・ザ・ギャザリング・オンライン取引所――の頭文字である。
サイトは短期間だけ動いたが、マケーレブは「そこまで手をかける価値はない」と判断してすぐに閉じた。2009年には、彼は同じドメインを別の自作カードゲーム「The Far Wilds」の宣伝ページに転用している。
つまり mtgox.com は、ビットコインとは何の関係もない、カードゲーム好きの個人が持て余していた在庫ドメインだった。
Slashdotの記事一本で、王国は暗号通貨に転生する
転機は、技術ニュースサイトの一本の記事だった。
2010年7月、マケーレブは米国の老舗技術系掲示板Slashdot(スラッシュドット)に載っていたビットコインの紹介記事を読む。「これは面白い」「この通貨には、円やドルと交換できる取引所が必要だ」――彼はそう判断した。手元には、使いきれていない mtgox.com があった。ドメインを再利用し、彼はビットコイン取引所を立ち上げた。
こうして、カードゲームの両替所として構想されたドメインが、暗号通貨を交換する場所として転生した。「MTGOX」という名前だけが残り、意味は変わった。多くの利用者は、この名前がもともとカードゲームに由来することを知らないまま、そこで円やドルとビットコインを交換した。
2011年、フランス青年カルプレスへ譲位
しかし、マケーレブは長くは続けなかった。
サイトは急速に利用者を増やし、彼一人では手が回らなくなった。彼はその頃、後にリップル社(Ripple)や恒星ネットワーク(Stellar)を立ち上げることになる別の構想に取り組んでいた。
2011年3月、マケーレブは mtgox.com を、当時日本在住のフランス人プログラマ、マルク・カルプレス(Mark Karpelès)に売却する。彼はそのとき、こう記した趣旨の言葉を残している。
たいまつを受け取ったカルプレスは、当時25歳。株式会社MTGOXを東京都渋谷区に設立し、渋谷が世界のビットコイン取引所の一つになった。
渋谷、世界のビットコインが集まる場所になる
2011年から2013年にかけて、ビットコインの価格は驚くほど跳ねた。
2011年初頭に1BTC=1ドル前後だった価格は、2013年末には1BTC=1,000ドルを超えた。米欧のニュース番組は連日「デジタルゴールド」を報じ、キプロス金融危機のあおりで欧州の預金者は口座を保護する手段として暗号通貨に目を向けた。マウントゴックスは、2013年4月時点で世界のビットコイン取引量の約70%を扱っていたとされる(複数の海外報道)。
日本の一取引所が、世界の暗号通貨売買の中枢になった。しかし、その中枢は、渋谷の一雑居ビルに置かれた、十数人規模の小さな会社だった。
社内の運用は属人的だった。多くの機能はカルプレス自身がコードを書き、資金の入出金も社長が把握していた。ユーザー資産と会社資産は同じシステムの上に載り、後の裁判で問題になる「口座残高の水増し」も、この属人的な運用の延長線で起きた。
2014年2月28日、王国は民事再生を申請する
崩壊は、静かに、しかし急に来た。
2014年2月上旬、ユーザーからのビットコイン引き出しが次々と保留になった。マウントゴックスは当初、「トランザクション展性(トランザクション・マリアビリティ)というビットコインの仕様上のクセが原因だ」と説明した。しかし、事態は説明の域を超えて悪化していった。
2月23日、カルプレスはビットコイン財団(Bitcoin Foundation)の理事を辞任する。
2月24日、マウントゴックスは全取引を停止する。同社サイトはブランクページになった。
そして、2月28日午後、渋谷。カルプレスは記者会見を開き、約85万BTC(当時のレートで約480億円相当)が消失したと公表した。内訳は、ユーザー保有分 約75万BTC、自社保有分 約10万BTC。同日、東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請し、経営破綻に至った。
会見の映像は世界に流れた。渋谷区の小さな会社が世界に配信していた「ビットコインを両替する場所」は、その日、消えた。
「見つかった20万枚」と、CoinLabの16億ドル訴訟
2014年3月20日、マウントゴックスは、意外な発表をする。
「旧式のデジタルウォレットから、約20万BTCが発見された」――消失は当初発表の85万BTCではなく、差し引き約65万BTCと改められた。技術的な混乱と、社内の資産管理のずさんさが同時に露呈した瞬間である。
4月16日、東京地裁は、債権者が海外に多く実態調査が進まないことなどを理由に、民事再生の申請を棄却した。4月24日、同地裁は破産手続きの開始を決定する。マウントゴックスは、そのまま清算に向かうかに見えた。
だが、話をさらに複雑にしたのは、米国側の訴訟である。
CoinLab(コインラボ)という米シアトルの企業は、2012年11月、マウントゴックスと「北米(米国・カナダ)のユーザー対応をCoinLabに移管する」旨の契約を結んでいた。2013年5月、CoinLabは「マウントゴックスがこの契約を守らない」として、7,500万ドルの損害賠償を求めて米国で提訴。2019年2月には請求額を160億ドルに引き上げた(複数報道)。この訴訟は長らく、後の債権者への弁済プロセスを止める最大の障害となった。
2021年1月、CoinLabは、マウントゴックス管財人小林信明弁護士・投資会社Fortress Investment Groupとの間で和解に到達し、ようやく債権者への弁済への道が開いた。
逮捕、そして「横領は無罪、データ改竄は有罪」
日本国内では、刑事事件が別のスケジュールで進んでいた。
2015年8月1日、警視庁は、自身の口座残高データを改竄した疑いで、カルプレスを私電磁的記録不正作出・同供用の容疑で逮捕する。
同月21日、警視庁は、ユーザーから預かった資金を私的に使ったとして、業務上横領の容疑で再逮捕。カルプレスは合わせて約1年間、勾留された。
2019年3月15日、東京地方裁判所は判決を言い渡す。私電磁的記録不正作出・同供用については有罪、懲役2年6月・執行猶予4年。業務上横領については無罪。
裁判所は「自身の口座の残高データを改竄した事実」は認めたが、「ユーザーの資金を私的に着服したとまでは認められない」と判断した。「金は消えたが、社長が持ち逃げしたのではない」――多くの人が、この結論に釈然としない気持ちを抱いた。
判決後、カルプレスは控訴。2020年6月11日、東京高等裁判所は控訴を棄却。2021年1月27日、最高裁判所が上告を棄却し、懲役2年6月・執行猶予4年が確定した。
刑事被告人としては一つの区切りがついたが、消えた65万BTCの行方は、依然として完全には解明されていない。
破産から民事再生へ ― 価格高騰が救った債権者
奇妙な救済は、価格の上昇から来た。
破産手続きが始まった2014年当時、1BTCは約5万円前後だった。ところが、その後の暗号資産ブームで、2017年末には1BTCは200万円を超えた。管財人が手元に確保していた約20万BTCの帳簿価値は、破綻当時の約7〜10倍に膨れ上がっていた。
「これはもう、破産して現金で分配するより、暗号資産のまま返した方が、債権者にとってはるかに得ではないか」――そんな異例の状況が生まれた。
2018年6月22日、東京地方裁判所は、株式会社MTGOXについて民事再生手続の開始を決定する。破産手続きから民事再生手続へ切り替わるという、極めて珍しい展開だった。破綻当時の帳簿では債権額は円建てで固定される。しかし手元資産(BTC)は暴騰している。ならば清算ではなく、残ったコインをコインのまま、または現金で、100%近くまで返そう――という理屈が成り立った。
2021年、東京地裁は民事再生計画を正式に認可。債権者はおよそ2万4,000人、返還対象は約14万BTCおよび相当量のビットコインキャッシュ(BCH)と現金と報じられた。
2024年7月5日、管財人はビットコインとビットコインキャッシュの払い出しを開始する。破綻から10年半。当時5万円だったBTCは、払い出し開始の頃には数百万円台後半から1,000万円超の水準になっていた。「85万枚がある日消えた」王国の債権者は、その多くが、破綻時の帳簿より圧倒的に大きな金額を、ゆっくりと受け取り始めた。
弁済期限は当初2018年、2023年10月、2024年10月と延長を繰り返し、2026年10月までさらに延ばされている(2025年時点の報道)。
王国の年代記
コインを守るのは、コインを持つ人の仕事だった
最後に、王国の興亡から残るのは、暗号技術論ではなく、信頼の設計論である。
ビットコインは、「銀行を信じなくてよい通貨」として設計された。改ざんできない台帳、中央管理者のいないネットワーク、数学だけを信じる決済。技術としては、その理想は概ね実現している。今日でも、ビットコインのプロトコル自体が破られてお金が消えた事件はほとんど起きていない。
破られたのは、技術の外側だった。
利用者は、ビットコインそのものを財布に入れていたのではない。「マウントゴックスが預かってくれている」という帳簿の一行を、財布代わりにしていた。ホットウォレットに置きっぱなしの秘密鍵、社長一人が握るシステム、業務資産と顧客資産の混同、CoinLab との契約に対する準備不足――どれも、技術の欠陥ではなく組織の欠陥だった。
「銀行を信じなくてよい」ということは、しかしそのまま「取引所を信じてよい」を意味しない。設計者の意図はさておき、実際の利用者はどこかで誰かを信じないと動けない。信頼が銀行から取引所に移っただけなら、取引所は銀行と同じ規律を持たなければならない。マウントゴックス事件が突きつけたのは、その当たり前の要求だった。
事件後、日本は世界に先駆けて2017年に改正資金決済法を施行し、暗号資産交換業者に登録制を導入した。分別管理・監査・報告義務が課され、金融庁の監督下に入った。「サトシ・ナカモトの理想」と「金融庁の登録番号」――一見矛盾する2つが、渋谷の破綻を経てようやく共存を始めた。
そして、それでも事件は起こる。2018年のコインチェック事件、2022年のFTX破綻、2023年以降も止まない海外取引所ハック。「秘密鍵を自分で持つ」というビットコイン本来の姿を、私たちはまだ、生活の道具として使いこなせていない。
「コインを守るのは、コインを持つ人の仕事だった」――マウントゴックスの85万枚は、10年以上かかって、その一文を私たちに教えるための授業料になった。