兜町システム王国の興亡
情報処理王国史 外典第七十九巻
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兜町システム王国の興亡

1円の朝と、鐘が鳴らなかった日

J-COM ARROWHEAD
この記事について
この記事は、東京証券取引所の売買システムをめぐる2つの大事件——2005年のジェイコム株大量誤発注事件と、2020年の史上初「終日全銘柄売買停止」——を軸に、日本の株式市場がシステムとともに歩んだ興亡を、歴史書体裁のブラックコメディとして描いたものである。年月日・金額・判決内容はすべて公式発表と報道記事から取ったが、章題や皮肉めいた語り口はフィクション的である旨、あらかじめ断っておく。
2005年12月8日、午前9時27分56秒。東京・兜町で、「61万円で1株」売るはずの株式の注文が、「1円で61万株」として市場に放たれた。
担当者はすぐに誤りに気づき、取消の操作をした。システムは受け付けなかった。何度やっても、受け付けなかった。損失は、407億円になった。
その15年後、2020年10月1日の朝。同じ王国で今度は、何も起きなかった。取引が始まるはずの時刻に、売買がひとつも始まらなかったのである。
CH.01

拍手で閉じた立会場

1.1 兜町という国号

東京・日本橋兜町(かぶとちょう)。東京証券取引所が建つこの一角は、1878年の東京株式取引所の設立以来、日本の証券市場の代名詞であり続けてきた。ニューヨークの「ウォール街」に対する、日本の「兜町」である。

【用語解説】場立ち(ばだち)
証券取引所の立会場(たちあいじょう:売買を行うための取引フロア)で、証券会社を代表して売買注文を叩き合った担当者のこと。銘柄や数量を独特の手サイン(指のかたちで銘柄や売買を表す身振り)で伝え合い、立会場は毎日、怒号と熱気に包まれていた。

1.2 1999年4月30日、市場は人の声を失った

その兜町の風景が変わったのは、1999年4月30日である。この日、東証は立会場を閉鎖した。1世紀あまり続いた「人が声と手で売買する市場」は拍手とともに幕を下ろし、すべての注文はコンピュータシステムの中で突き合わされることになった。

市場は、人の声を失った。かわりに、人間には聞こえない速度で動く沈黙を手に入れた。

王国は、この沈黙を「進歩」と呼んだ。実際、進歩だった。ただしこのとき王国は、まだ知らなかった。立会場から人がいなくなるということは、「何かおかしいぞ」と叫ぶ人間も、そこからいなくなるということだった。


CH.02

予兆——止まった午前

2.1 2005年11月1日、開かなかった朝

2005年11月1日の朝、王国は開かなかった。

売買システムの不具合により、東証の全銘柄が朝から売買できなくなったのである。原因は、前月に行われたシステムの能力増強作業に潜んでいた不具合だった。売買が再開されたのは午後になってからで、王国は「取引所が丸ごと止まる」という経験を初めてした。

東証は2005年11月1日、システム障害により全銘柄の売買を停止した。原因は前月の機能拡張に伴うプログラムの不具合だった。
— 日経クロステック「東証システム障害で何が起こったのか、15年分の苦闘総ざらい」より要約

2.2 「半日で直った」という安心

このとき、王国の民の多くはこう考えた。「まあ、こういうこともある。半日で直ったのだから大したものだ」と。

本当の事件は、その37日後に来た。


CH.03

1円で61万株を売った朝

3.1 9時27分56秒の入力

2005年12月8日、午前9時27分56秒。

みずほ証券の担当者は、この日マザーズ市場に新規上場した人材サービス会社「ジェイコム」の株を、顧客の注文どおり「61万円で1株」売るつもりだった。

端末に打ち込まれたのは、「1円で61万株」だった。

【用語解説】ファットフィンガー・エラー
fat finger、直訳すると「太い指」。キーボードの打ち間違いによる誤発注を指す金融業界の俗語。値段と数量を逆に入力する、桁を間違える、といった人為ミスの典型例である。この事件は、世界のファットフィンガー史でも最大級のものとして知られる。

61万株。それはジェイコムの発行済株式数1万4,500株の約42倍である。この世に存在しない株を、存在しない量だけ、1円で売る注文だった。端末には警告が表示されたが、注文は市場に放たれた。

3.2 取り消せない注文

誤りに気づいたみずほ証券は、直ちに取消注文を出した。ところが、東証の売買システムはこれを受け付けなかった。特定の条件下で取消処理が機能しないプログラム上の不具合——のちの裁判で認定される「バグ」——が、システムの中で6年間、誰にも気づかれずに眠っていたのである。

取消は、何度執行しても効かなかった。注文は生き続け、最終的に発行済株式数の約48倍にあたる70万株の売買が成立した。

3.3 解け合いと407億円

存在しない株が売買されてしまった以上、通常の決済は不可能である。日本証券クリアリング機構は「解け合い」による強制決済を裁定し、1株91万2,000円での現金決済となった。みずほ証券の損失は、407億円にのぼった。

【用語解説】解け合い(とけあい)
市場の混乱などで通常の決済(株券と代金の受け渡し)ができなくなったとき、当事者間で価格を決めて金銭で強制的に決着させる例外的な処理。戦前から制度としては存在したが、実際に発動されるのは極めて異例である。

なお、この混乱の中で誤発注に乗じて売買し、約20億円の利益を得た当時27歳の個人投資家がいた。ハンドルネームから「B・N・F」、報道では「ジェイコム男」と呼ばれ、この事件を象徴する人物のひとりとなった。


CH.04

10年裁判——バグは罪か、判断は罪か

4.1 約414億円の請求

407億円は、誰が払うべきなのか。

みずほ証券は「取消注文を受け付けなかった東証のシステムに原因がある」として、2006年10月27日、東証を相手取り訴訟費用を含む約414億円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。誤発注をしたのは自分たちだが、取り消せなかったのはそちらのせいだ、という理屈である。

2009年12月4日、東京地裁は東証に約107億円の支払いを命じた。過失割合は「東証7対みずほ3」。誤発注そのものはみずほの過失だが、異常な売買が成立し続けているのに売買停止の措置を取らなかった東証の責任の方が重い、という判断だった。

4.2 バグは重過失ではない

「速やかに売買停止の権限を行使しなかったのは、東証の重過失に当たる」
— 東京高裁判決(2013年7月24日)の判示内容、日本経済新聞・日経クロステックの判決報道より要約

興味深いのは、裁判所が「バグそのものは重過失ではない」と判断したことである。プログラムに誤りが混入すること自体は、注意していても避けきれない。しかし、目の前で異常事態が進行しているのに市場を止めなかった人間の判断の遅れは、重過失である——。

2015年9月3日、最高裁が双方の上告を退け、東証の約107億円の賠償が確定した。事件から、実に10年が経っていた。


CH.05

光速の王国——arrowheadの時代

5.1 2ミリ秒の世界

誤発注事件の反省も踏まえ、東証は売買システムを根本から作り直した。2010年1月4日、新システムが稼働する。名を「arrowhead(アローヘッド)」といった。

【用語解説】arrowhead(アローヘッド)
東証と富士通が開発した株式売買システム。2010年1月稼働。名前は「矢じり」の意で、注文処理のスピードと正確さを象徴する。稼働当初の注文応答時間は約2ミリ秒(1,000分の2秒)。人間のまばたきはおよそ100ミリ秒なので、まばたき1回の間に50件の注文をさばける計算になる。

arrowheadの登場で、王国の風景はまた変わった。ミリ秒単位の売買が可能になったことで、HFT(High Frequency Trading:高頻度取引。コンピュータのプログラムが人間を介さず、1秒間に何千回という単位で自動的に売買を繰り返す取引手法)が市場の主役に躍り出たのである。

立会場の場立ちが消えてから11年。今度は、注文を出す側からも人間が消え始めた。王国の売買の過半は、機械と機械の対話になった。

5.2 それでも「切り替わらない」

しかし、速くなった王国にも、古い呪いは残っていた。

2012年2月2日、相場情報を配信するサーバーが故障し、待機系への切り替えに失敗。株式222銘柄、ETF(上場投資信託)12銘柄などを含む241銘柄が半日売買停止となった。2018年10月9日には、証券会社側の設定ミスで同一のIPアドレス(ネットワーク上の住所)から大量の電文が流れ込み、平時の1,000倍の負荷で接続回線の1本がダウンした。

装置が壊れることは、想定されていた。壊れたときに「自動で切り替わるはず」の仕組みが切り替わらないことは、想定の外にあった。


CH.06

鐘が鳴らなかった日——2020年10月1日

6.1 午前7時4分の故障

2020年10月1日、午前7時4分ごろ。

取引開始のおよそ2時間前、arrowheadの中枢で異変が起きた。相場情報などを共有する「共有ディスク装置」の1号機で、メモリ周辺の機器が故障したのである。

【用語解説】フェイルオーバー
failover。稼働中の機器やシステムに障害が起きたとき、待機している予備の機器へ自動的に処理を引き継ぐ仕組み。「二重化」「冗長化」とセットで語られる、止まってはいけないシステムの基本装備である。

装置は2台構成だった。1号機が壊れたら、2号機へ自動で切り替わる——はずだった。切り替わらなかった。装置の設定値が、メーカーである富士通のマニュアルの記載から想定される挙動と異なっており、自動切替が働かない状態になっていたのである。マニュアルの記載は実機の仕様変更に追随しておらず、東証側のテストでもこの穴は検出できていなかった。

6.2 止まった王国に、再開の手順書はなかった

相場情報が配信できないまま、午前9時が来た。取引開始の時刻に、取引が始まらなかった。東証は全銘柄の売買停止を決定し、そのまま一度も再開できずに1日が終わった。1999年のシステム化以降、史上初の「終日全銘柄売買停止」である。東証のシステムを利用する名古屋・札幌・福岡の各証券取引所も、連鎖して止まった。

東証、終日売買停止 システム障害で初
— 日本経済新聞 2020年10月1日 記事見出しより

王国が積み上げてきた「止まらない」という誇りは、この日、装置1台ぶんの設定値とともに崩れた。しかも王国には、「止まった市場を当日中にどう再開するか」の明確なルールが存在しなかった。止まらない前提の王国に、止まった日の手順書はなかったのである。


CH.07

称賛された謝罪会見

7.1 神対応と呼ばれた夕方

その日の夕方、東証は記者会見を開いた。宮原幸一郎社長、日本取引所グループ(JPX:東証などを傘下に持つ持株会社)の横山隆介CIO(Chief Information Officer:最高情報責任者)らが登壇した。

異例だったのは、その会見の「評判」である。宮原社長らが経営判断を、横山CIOが技術面を説明する役割分担が明確で、CIOは記者からの技術的な質問に、専門用語をかみ砕きながら理路整然と即答した。SNSやIT業界では「神対応」とまで呼ばれ、謝罪会見が称賛されるという、日本の企業史でも珍しい光景が生まれた。

「もしあなたが東証のCIOだったらどうした? 〜あの記者会見から学ぶインシデントレスポンスのスキル〜」
— 一般社団法人 日本CTO協会 記事タイトル(2020年10月5日)より

7.2 別々の帳簿

障害の翌日、10月2日に売買は再開された。技術的な収拾は、迅速だったと言ってよい。

しかし、帳簿はそれで閉じなかった。2020年11月30日、金融庁は東証とJPXに対し、金融商品取引法に基づく業務改善命令を出した。そして同じ日、宮原社長は引責辞任した。


CH.08

「止めない」から「戻れる」へ

8.1 レジリエンスへの改宗

2020年の障害後、東証は市場関係者を集めた「再発防止策検討協議会」を設置し、2021年3月に報告書をまとめた。そこで打ち出された方針転換は、王国の思想史における静かな革命だった。

「決して止めない」を目指すのを、やめたのである。

正確に言えば、止まらない努力は続ける。しかしそれ以上に、「止まっても速やかに再開できること」——レジリエンス(resilience:回復力・復元力)——を設計の中心に据えた。障害時に売買をどう再開するかのルールを、証券会社を巻き込んで事前に整備した。止まった日の手順書を、止まる前に書いたのである。

8.2 arrowhead4.0

2024年11月5日には、この思想を織り込んだ第4世代システム「arrowhead4.0」が稼働した。取引情報をメモリ上で三重化して複数サーバで並行動作させ、障害時には秒単位でサーバを切り替える。あわせて取引終了時刻は70年ぶりに延長され、王国の1日は15時30分までになった。

障害が起きても早期に取引を再開できるシステム設計や運用体制とした。
— 日経クロステック「東証arrowheadが5年ぶり刷新、1日5兆円取引の新システム『安定稼働』」より要約

1日およそ5兆円が行き交う王国は、いまもミリ秒より速い沈黙の中で開き続けている。

読者への問い:あなたの王国の手順書
あなたの会社にも、「絶対に止まらないはず」の仕組みがひとつやふたつ、あるはずだ。ではその仕組みが止まった日の再開手順は、どこかに書いてあるだろうか。それとも、止まらないという前提だけが書いてあるだろうか。

CH.09

誰も悪くない王国だった

9.1 悪人のいない歴史

この王国の歴史を振り返って不思議なのは、悪人がひとりも出てこないことである。

誤発注をした担当者は、故意ではなかった。毎日何十回と表示される警告は、毎日何十回と「問題ない」ことを確認するための儀式になっており、その儀式は事件の朝も、いつもどおり執り行われただけだった。

取消を受け付けなかったバグは、6年前から静かに眠っていた。テストで見つからなかったのは、誰かが手を抜いたからではない。「発行済株式数の42倍を1円で売る」という事態を想定したテストケースを書ける人間が、いなかっただけである。

2020年の設定値も同じだ。現場はマニュアルどおりに設定した。マニュアルの方が実機に追いついていなかった。マニュアルを疑ってテストせよ、と言うのは簡単だが、マニュアルを疑い始めたシステム運用は、聖典を疑い始めた教団と同じで、どこにも着地できない。

つまりこの王国は、全員がそれぞれの持ち場で、おおむね真面目に働いた朝に、止まったのである。

9.2 仕組みの強さと、人間の緊張感は反比例する

完璧に近い仕組みを作るほど、人はそれが完璧であることを前提に暮らし始める。警告は読み飛ばされ、切替装置は試されないまま年を取り、再開手順は「使う日が来ない書類」として書かれない。仕組みの強さと、人間の緊張感は、残酷なことに反比例する。

だからこの王国が最後にたどり着いた答え——「止まらないことを誇るのではなく、戻り方を先に決めておく」——は、システム設計の話でありながら、ほとんど人間についての洞察である。失敗を想定することは、敗北主義ではない。それは、人間が運用するものすべてに対する、最低限の礼儀なのだ。


CH.10

王国の年代記

1878年 東京株式取引所が兜町に設立される
1999年4月30日 東証、立会場を閉鎖。売買が全面システム化される
2005年11月1日 システム障害で全銘柄が売買停止(午後に再開)
2005年12月8日 ジェイコム株大量誤発注事件。みずほ証券が407億円の損失
2006年10月27日 みずほ証券、東証に約414億円の損害賠償を求め提訴
2009年12月4日 東京地裁、東証に約107億円の賠償を命令(過失割合は東証7対みずほ3)
2010年1月4日 新売買システム「arrowhead」稼働。注文応答約2ミリ秒
2012年2月2日 arrowhead障害。切替失敗により241銘柄が半日売買停止
2013年7月24日 東京高裁「速やかな売買停止をしなかったのは東証の重過失」と判示
2015年9月3日 最高裁が上告を退け、東証の約107億円賠償が確定
2018年10月9日 証券会社側の重複IPアドレスによる負荷で接続回線の一部がダウン
2020年10月1日 共有ディスク装置故障とフェイルオーバー不作動により、史上初の終日全銘柄売買停止
2020年10月2日 売買再開
2020年11月30日 金融庁が東証とJPXに業務改善命令。宮原社長が引責辞任
2021年3月25日 再発防止策検討協議会が報告書を公表。レジリエンス重視へ方針転換
2024年11月5日 第4世代「arrowhead4.0」稼働。取引時間を15時30分まで延長

鐘は、人間のために鳴る。
機械は、鐘を必要としない。
1円で売られた61万株は、この世に存在しなかった。
それでも市場は、それを「約定」と呼んだ。
止まらないことを誇った王国は、
止まった日の身の振り方を、あの朝まで知らなかった。
王国は、いまも毎朝開いている。
止まらないからではない。
止まっても、戻り方を覚えたからである。
――売買 再開

参考・引用資料
ジェイコム株大量誤発注事件 — Wikipedia
日経クロステック「損失400億円事件で揺れた2005年、バグで株誤発注の取り消し不能」
日経クロステック「東証システム障害で何が起こったのか、15年分の苦闘総ざらい」
日経クロステック「ようやく賠償が確定、記事で振り返るみずほ証券-東証裁判の10年」(2015年9月)
日本経済新聞「東証の107億円賠償が確定 みずほ証券株誤発注、上告退ける」(2015年9月4日)
日本経済新聞「東証システム障害、241銘柄が半日売買停止 原因究明急ぐ」(2012年2月2日)
日本経済新聞「東証、終日売買停止 システム障害で初」(2020年10月1日)
ITmedia NEWS「東証、9日のシステム障害の原因を説明 メリルリンチが重複IPアドレスで接続」(2018年10月24日)
日本取引所グループ「10月1日に株式売買システムで発生した障害について」(2020年10月19日)
日本取引所グループ「再発防止策検討協議会 報告書」(2021年3月25日)
piyolog「2020年10月に発生した東京証券取引所のシステム障害についてまとめてみた」(2020年10月2日)
一般社団法人 日本CTO協会「もしあなたが東証のCIOだったらどうした? 〜あの記者会見から学ぶインシデントレスポンスのスキル〜」(2020年10月5日)
金融庁「株式会社東京証券取引所及び株式会社日本取引所グループに対する行政処分について」(2020年11月30日)
富士通 プレスリリース「東証の株式売買システム『arrowhead4.0』を運用開始」(2024年11月5日)
ITmedia NEWS「金融庁、JPXと東証に業務改善命令 再発防止や責任の所在の明確化など要求」(2020年11月30日)