決済王国の興亡
規格が増え続けた国の30年
財布のなかで、Suica・PASMO・nanaco・WAON・iDが、肩を寄せ合って眠っている。スマホには PayPay・楽天ペイ・d払い・au PAYのアイコンが並ぶ。
レジで「どれで払いますか」と問われ、ポイント還元率を脳内で計算し、後ろの行列を気にしながら、私たちはまた今日も指を泳がせる。
なぜ、こうなったのか。誰がこの王国を作ったのか。実は、誰も悪くなかった――それが、もっとも厄介な真実である。
本稿は実在の企業・サービス・出来事に基づくが、語り口にはフィクションの装飾を含む。年号・人名・統計値はいずれも公開資料から採取しており、参考資料を末尾にまとめた。「決済王国」とは比喩であり、実在する特定の組織を指して批判するものではない。
1988年、運送会社が出した一通の依頼書
1.1 すべては仕分け作業の依頼から
物語は1987年の暮れ、ソニーの研究所に届いた一通の依頼書から始まる。差出人は運送業者、要件は「荷物の仕分けを自動化したい」というものだった。バーコードでは濡れる。磁気テープでは弱い。何か、もっと「触れずに読める」仕組みはないか。
ソニーは応じた。1988年、非接触ICカード技術 FeliCa(フェリカ) の開発が正式に始まる。語源はラテン語の「Felicitas(幸福)」と「Card」の合成。”触れずに、瞬時に、確実に” を理念に置いた、当時としては異例の野心的プロジェクトであった。
1.2 日本生まれの技術が、海を渡って先に開花した
最初に世に出たのは、皮肉にも日本ではなかった。1997年、香港の地下鉄が Octopus(八達通/オクトパス)カード に採用したのである。日本生まれの技術が、海を渡って先に開花した。
この時点では、まだ「決済王国」は影も形もない。あるのは一枚の薄い樹脂と、一握りの技術者と、運送会社からの最初の依頼書だけだった。
2001年、二つの旗印
2.1 ビットワレット設立、Edyの船出
2001年は、日本の決済史にとって創世記である。1月18日、ビットワレット株式会社(後の楽天Edy株式会社) が設立された。出資者にはソニー、NTTドコモ、さくら銀行、トヨタ自動車、デンソー、DDI(現KDDIの前身、第二電電)、三和銀行、東京三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)――11社の名門が並んだ。
社名は「bit(情報の最小単位)」と「wallet(財布)」を合わせた造語。サービス名は Edy(エディ)。Euro・Dollar・Yen に続く第四の通貨、という壮大な命名であった。
2.2 Suica、首都圏424駅で改札を開く
その10か月後、11月18日。今度はJR東日本が首都圏424駅で Suica(スイカ) のサービスを開始する。語源は “Super Urban Intelligent Card” の頭文字、ペンギンのキャラクターがそれを背負って改札を抜けていった。
2.3 技術は一つ、サービスは二つ
ここに、王国は二つの旗印を持つことになった。流通の旗(Edy) と 交通の旗(Suica)。同じFeliCaという技術を背骨にしながら、両者は別々の事業者、別々のIDシステム、別々の残高管理を持っていた。
技術は一つ。しかし、サービスは二つ。この、ささやかな分岐が、後の三十年に渡る乱立の最初の地割れだったことに、当時誰も気づかなかった。
2004年、ケータイという馬
3.1 世界初のFeliCa対応携帯
2004年6月16日、NTTドコモが世界初の FeliCa対応携帯電話 を発表する。後に「おサイフケータイ」と呼ばれることになるあの仕組みである。対応機種は4機種、ソニーエリクソン・パナソニック・シャープ・富士通から各1機種ずつ。
7月10日、最初の端末「mova P506iC」が市場に投じられた。同じ月、フェリカネットワークス株式会社が設立され、ソニー60%・NTTドコモ40%(後にJR東日本も資本参加)の共同事業体制が組まれた。
3.2 最後の手間が、ポケットの中に溶けた
この発明によって、王国は「カードを取り出す」という最後の手間を捨てた。財布の中の薄いカードが、ポケットの中のケータイに溶け込んだ。世界の決済史のなかでも、日本がほぼ唯一先行していた時代である。
3.3 日本でしか使えない速さ
しかし、ここでひとつ、決定的な選択ミスが起きていた。日本だけが、FeliCa という独自規格に深く根を張ったのである。海の向こうではこの頃、別の規格 NFC(Near Field Communication、近距離無線通信) が国際標準の道を歩み始めていた。
技術的にはFeliCaのほうが速く、堅牢で、機能も豊富だった。だが、それは “日本でしか使えない速さ” だった。
2007年、流通王たちの参戦
4.1 PASMO、首都圏私鉄を結ぶ
2007年は、王国に新しい貴族たちが参戦した年である。その前段として3月18日、首都圏私鉄各社が PASMO(パスモ) を投入。Suica と相互利用できる「弟分」だが、別ブランド・別カードである。最初の1か月で約300万枚を発行し、当初予測の200万枚を大きく上回った。
4.2 nanaco・WAON、同月にデビュー
4月23日、セブン&アイ・ホールディングスが nanaco(ナナコ) を発行開始した。”nana(七)” を冠した、文字通りセブン-イレブンのためのカードである。
その4日後、4月27日。今度はイオンが WAON(ワオン) を発表した。語源はイヌの鳴き声「ワオン」と「和音」のダブルミーニング。同じ4月のうちに、流通の二大巨人が、まったく別個の電子マネーを世に出したのである。
4.3 自分の村でしか流通しない通貨
技術はどちらもFeliCa。だがチャージ用の口座も、ポイント還元の仕組みも、加盟店ネットワークも、すべて別物であった。WAONはセブン-イレブンで使えず、nanacoはイオンで使えない。”自分の村でしか流通しない通貨” を、二つの大手流通王が同時に発行した格好である。
加えて、すでに先住民として君臨していた Edy と Suica が、別々の縄張りを保ったまま隣に立っていた。
4.4 レジ前の沈黙の時間
この年の暮れ、レジ前で財布の中身を漁る人々の姿が、全国の小売店で見られるようになった。
「nanaco・WAON・Suica・PASMO・Edy・iD……どれで払いますか?」
店員は確認する。客は財布を覗き込む。後ろに行列が伸びる。
王国は、ここで初めて「自分が乱立している」ことに気づいた。気づいたが、もう誰も引き返せなかった。
2013年、交通系の和平条約
5.1 東京駅で途方に暮れる旅人
王国の住人たちの不満は、しかし、交通の現場で最も激しく爆発していた。出張先で「東京のSuicaが大阪では使えない」「九州ではSUGOCA、福岡市営地下鉄ははやかけん」「名古屋ではTOICA・manaca」――地域ごとに異なるカードを買い直さねばならず、東京駅の券売機の前でカードを並べて途方に暮れる旅人が日常風景になっていた。
5.2 10種類の「相互利用」協定
2013年3月23日。JR各社・大手私鉄各社が結集し、交通系ICカード全国相互利用サービス が開始される。北海道のKitaca、首都圏のPASMOとSuica、中部のmanaca・TOICA、関西のPiTaPa・ICOCA、九州のはやかけん・nimoca・SUGOCA――合計10種類のカードが、相互に使える協定である。
5.3 誰の縄張りも侵さない、誰の利益も削らない
これは、決済王国における最初で最大の「和平条約」であった。10種類のカードは消えなかった。それぞれの発行元はそのままに、”相互に通用する” という外交だけが整備されたのである。
ブランドはそのまま、改札は通れるようになる。「統合」ではなく「同盟」――この曖昧な解決策こそが、日本の「誰も損しない調整」の典型例であった。誰の縄張りも侵さない。誰の利益も削らない。代わりに、利用者には「10種類のうちどれでも好きなのをどうぞ」という、ある意味で残酷な自由が残された。
2018年、黒船としてのQRコード
6.1 PayPay、サービス開始
王国が次に揺れたのは、2018年10月5日である。ソフトバンクとヤフー(当時、現LINEヤフー)が共同出資する PayPay株式会社 が、新サービス「PayPay」を開始した。FeliCaを使わず、スマートフォン画面上のQRコードを読み取らせるだけの仕組み。中国 Alipay(アリペイ)と WeChat Pay(ウィーチャットペイ)の手法を、ほぼそのまま輸入した形であった。
6.2 100億円が10日で蒸発した日
そして12月4日、PayPayは決済王国史上最大の “黒船襲来” を仕掛けた。「100億円あげちゃうキャンペーン」。決済額の20%を還元、さらに40回に1回の確率で全額を返金するという、常識を超えた告知であった。
結果は、王国の歴史を塗り替える。12月13日23時59分(告知から10日目)、還元総額が予算の100億円に到達。キャンペーンは突如終了した。”3か月かけて配り切る予定だった100億円が、10日で蒸発した” のである。
6.3 QRコード時代の乱立、再演
PayPayの登場で、王国はQRコード時代に突入した。LINE Pay、楽天ペイ、d払い、au PAY、メルペイ、ファミペイ、Origami Pay――2019年だけで10種類以上の「○○Pay」が乱立した。
FeliCaで失敗した「乱立」が、QRコードでもう一度繰り返された。同じ過ちが、別のレイヤーで再生産された格好である。
2019年、7payの墓標
7.1 すでにnanacoがあったのに
そして2019年7月1日、王国は最も短命な王を迎える。セブン&アイ・ホールディングスが投入した 7pay(セブンペイ) である。すでにnanacoを持っていたグループが、なぜか別建てでQRコード決済を起ち上げた。
7.2 開始2日後の不正アクセス
開始から2日後の7月3日、不正アクセスの第一報が入る。2019年7月31日17時時点 の集計では、被害者808名、被害総額 約3,861万円(速報値、その後の調査でさらに増加)。原因はリスト型攻撃(他社サービスで流出したIDとパスワードを使う攻撃)、二段階認証なし、パスワード再設定の本人確認が脆弱――およそ、現代の決済サービスとしては考えられない設計であった。
7.3 最も短く、最も象徴的な墓標
7payはわずか3か月で終焉した。2019年9月30日24時、サービス停止。担当役員の記者会見で「二段階認証とは何ですか」という記者からの質問に明確に答えられなかった件は、いまも語り草である。
王国の歴史において、これほど短く、これほど象徴的な墓標は他にない。「ブランドを持たないと負ける」――その強迫観念だけで起ち上げた、何のための、誰のためのサービスだったのか。最後まで明確な答えは出なかった。
王国の年代記
誰も悪くなかった王国
9.1 全員が合理的に行動した
決済王国の三十年を振り返ると、奇妙な事実に行きつく。誰一人として、決定的な悪人がいない のである。
ソニーは、優れた技術を生み出した。JR東日本は、改札の混雑を救った。ドコモは、ケータイの新しい使い道を示した。流通の二大巨頭は、それぞれの顧客に最適化されたサービスを提供しようとした。鉄道各社は、地域経済と利用者の両方に配慮して相互利用協定を結んだ。PayPayは、現金主義の壁を破った。
それぞれの選択は、それぞれの組織の論理においては、十分に正しかった。
9.2 個々の合理性の総和が、全体の不便を生む
しかし、組織の正しさを足し合わせると、利用者の手元には 「平均3.3種類の電子マネーを併用する財布」 が残った(パーソルキャリア「2022年 電子マネー実態調査」より)。レジ前で「どれで払いますか」と問われ、ポイント還元率を脳内で計算し、チャージ残高を確認し、後ろの行列を気にしながら指を泳がせる――この風景は、誰の意思でもなく、誰の悪意でもなく、ただ「個々の合理性の総和」として出現した。
9.3 調整型ガバナンスという日本の癖
これは、日本のIT史で繰り返し見られる構造である。「みんなで決めない」ことが、結果として「みんなで決まらない」を生む。 統合の旗を振る者がいないわけではない。だが、統合の旗の下に集まる王たちが、互いに既得権を譲り合うようには、王国は設計されていなかった。
決済王国は、いまも続いている。PayPayは王者となり、LINE Payは2025年に統合を選び、Suicaのペンギンは2026年度末で「卒業」する。新しい王たちが、新しい旗を立てる。FeliCaという背骨はまだ残り、QRコードという新参の血脈もまた、王国の外縁に新しい村を作っていく。
技術は進化する。組織は最適化する。利用者は、自分の財布の中身を、今日も三回確認する。