Excel方眼紙王国の興亡
情報処理王国史 外典第二巻

Excel方眼紙王国の興亡

表計算ソフトを「紙」として使った人々の記録

EXCEL HŌGANSHI
この記事について
本記事は実際の技術的・社会的背景に基づいたブラックコメディ仕立ての読み物です。引用・参照はすべて実在の文献・発言・報道に基づきますが、語り口はフィクション的表現を含みます。
CH.01

方眼紙という名の黒船、到来

西暦1990年代初頭。日本のオフィスに、異国からの使者が届いた。

名をMicrosoft Excel、という。
行と列でできた表を、計算するための道具。数字を入れれば足し算をしてくれる。グラフも描ける。欧米のビジネスマンたちは、財務モデルの構築や売上予測のために喜々として使っていた。

しかし、ここは日本だった。

日本のビジネスマンたちはExcelを見て、まず思った。「これは……使いやすい方眼紙ではないか?

方眼紙とは、縦横等間隔の細かいマス目が印刷された紙のこと。日本では昔から設計図、手書き文書、学校の自由研究など、あらゆる「きれいに並べたいもの」に使われてきた民族的傑作だ。そしてExcelのセルは——正方形に設定できた。

列幅と行高さを同じ数値に設定すると、Excelは瞬く間に、デジタル方眼紙に変身する。この発見は火薬の発見に匹敵する。もっとも、日本のオフィス文化においては、の話だが。

【用語解説】方眼紙(ほうがんし)
縦横均等のマス目が印刷された紙のこと。Excelで全セルを正方形に揃え、文字・罫線・塗り色を組み合わせて「帳票」や「書類」を作る手法が「Excel方眼紙」と呼ばれる。表計算本来の機能(数式・データ処理)はほぼ使わない。欧米のビジネス文書にはほぼ存在しない、日本固有の慣行である。

かくして、表計算ソフトは日本において「高機能なワープロ」に転生した。財務モデルではなく稟議書が作られた。グラフではなくフローチャートが描かれた。数式ではなく罫線が引かれた。

Excelはデータを処理するためではなく、印刷したときに美しく見えるために存在することになった。この再定義は、ソフトウェアの歴史上、最も静かで、最も深刻な誤用の一つである。


CH.02

なぜ日本だけが、こうなったのか

海外の研究者がこの現象を知ると、決まって困惑した顔をする。「表計算ソフトで、なぜ……書類を?」

理由は、いくつかの日本固有の事情が、見事に重なり合ったためである。

第一の理由は、漢字だ。欧米のアルファベットは幅が不揃いで、プロポーショナル(文字ごとに幅が異なる)なフォントが基本である。しかし漢字は1文字が正方形に収まるよう設計されている。

正方形のセルと正方形の漢字——これは完璧な相性だった。セルに文字を入れるだけで、自然と美しく整列する。日本語文書はExcel方眼紙と、構造的に相性が良かったのだ。

第二の理由は、「紙に印刷したものが正式」という文化だ。欧米では、データはデータとして扱う。提出するのはPDFや数値そのもの。しかし日本では、「印刷してハンコを押したもの」が正式書類という歴史的伝統がある。

ならばExcelは、印刷の美しさのために最適化されるべきである——そう考えた人々の論理は、内部的には一貫していた。

第三の理由は、ワープロ(ワードプロセッサ)の断絶だ。1980〜90年代の日本では、「一太郎」「松」などの国産ワープロソフトが主流だった。しかしWindowsの普及とともに、これらは急速に廃れ、Wordへの移行が求められた。

ところがWordの日本語縦書きや複雑な表組みは、当時のバージョンでは使いにくかった。そこに、使い慣れたExcelがあった。Excelは、国産ワープロが去った穴を、勝手に埋めたのだ。

「日本ではExcelが帳票・申請書・報告書の作成ツールとして広く使われており、本来の表計算機能ではなくレイアウト・印刷ツールとして機能している。この結果、行政や企業間で流通する書類の多くがデータとして機械的に読み取れない形式になっており、デジタル化・業務効率化の深刻な阻害要因となっている。」
— デジタル庁「デジタル社会推進標準ガイドライン」(2022年)より要約

三つの偶然が重なり、Excelは日本において「多機能印刷装置」へと変容した。ソフトウェアの設計者が意図した目的と、実際の使われ方が——地球の裏側ほど離れていたのである。


CH.03

地獄の構造——誰も幸せにならない連鎖

問題は、Excel方眼紙が「便利かどうか」ではない。問題は、それを受け取った側が何もできないという点だ。

Excel方眼紙で作られた書類を受け取ったエンジニアは、こんな経験をする。セルを選択しようとすると、1文字ごとにセルが分かれている。「合計」の欄に数字を入れても、隣のセルと結合されているため何も起きない。データとして抽出しようとすると、セルの結合・分割・空白が複雑に絡み合い、処理スクリプトが半日では書けない。そもそも印刷用に設定されているため、データとして読み込むと、列が100以上ある空白の海が広がる。

「これ、手で入力するしかないですね」——その言葉が、毎年何千何万回と日本のオフィスで発せられた。

【用語解説】データの機械可読性(machine-readable)
データをコンピュータが自動的に読み取り・処理できる形式になっていること。CSV・JSON・XMLなどは機械可読性が高い。Excel方眼紙は「印刷したときに見た目が良い」が、コンピュータには構造が理解できないため、機械可読性がほぼゼロになる。このギャップが、デジタル化・DX推進の大きな壁となった。

特に深刻だったのは、行政のExcel方眼紙だ。国土交通省・厚生労働省・各都道府県が配布する「申請様式」の多くが、Excel方眼紙で作られていた。

市民・事業者が記入して送付する。行政の担当者が受け取る。しかしその担当者も、受け取ったデータを別のシステムに入力するため、目で見ながら手で打ち直していたのだ。

デジタルで送られてきたものを、アナログに変換して、再びデジタルに戻す。この謎の変換工程が、日本の行政DXの壁として21世紀の四半世紀を費やした。

「申請書類等において、データの再利用が困難なExcel方眼紙形式の使用を避け、機械判読に適したデータ形式を採用すること。具体的にはセルの結合を行わず、1セルに1つの値のみを入力する形式とすることを原則とする。」
— デジタル庁「デジタル社会推進標準ガイドライン」(2022年)より要約

CH.04

「Excelはワープロじゃない」——叫ばれ続けた言葉

IT業界の人間は、ずっと言い続けた。「Excelはワープロじゃない」と。

この言葉は2000年代から繰り返され、ブログに書かれ、勉強会で語られ、SNSに流れ、それでも何も変わらなかった。

なぜか。上司がExcel方眼紙で書類を作っていたからだ。上司の上司もそうだった。取引先もそうだった。「うちの様式に合わせてExcelで送ってください」と言われたら、従うほかない。断れば「使いにくい会社」のレッテルを貼られる。

エンジニアがいくら正論を叫んでも、組織の慣性は正論より重い。

ここに、PPAP問題と全く同じ構造がある。誰も推進したくないのに、誰も止められない。「やめたい」と思っている人が大多数でも、「最初にやめる人」になるコストを誰も払おうとしない。

「Excel方眼紙は、組織文化・慣行・権力構造が絡み合った問題であり、技術的な解決策だけでは根絶できない。上位者の書類フォーマットに下位者が従わざるを得ない構造が、変革の芽を摘み続けている。デジタル庁が旗を振っても、現場レベルでの変化には長い時間がかかる。」
— IPA(情報処理推進機構)「DX白書2023」より要約

CH.05

王国の年代記

1993〜94年頃 Microsoft Excel 5.0が日本市場に普及し始める
1990年代後半 国産ワープロソフトの衰退とともに、ExcelがWordと並ぶ「文書作成ツール」として定着。Excel方眼紙の原型が生まれる
2000年代 行政・金融・医療でExcel方眼紙による帳票が標準化。「様式を変えるな」文化が確立
2010年代 「Excel方眼紙」という用語が一般化。ITエンジニアの間で「もはや笑えない」問題として語られる
2016年頃 IPA(情報処理推進機構)がシステム開発・データ管理の指針でExcel方眼紙の問題点に言及し始める
2021年 デジタル庁発足。行政書式の標準化・機械可読性向上を重点施策に掲げる
2022年 デジタル庁が「デジタル社会推進標準ガイドライン」を策定・公開。Excel方眼紙を避けるよう明記
2026年(現在) 大手企業・一部官庁では改善が進む。しかし全国の中小企業・地方自治体には依然として普及中。新入社員が「なんでこんな形式で?」と毎年疑問を持ちつつ、言えずに黙って従う

CH.06

データが読めない国の代償

2020年。新型コロナウイルスが日本を直撃した。

この時、Excel方眼紙問題は「笑えない冗談」から「命に関わる問題」に格上げされた。感染者数の報告は、各医療機関が所定の書式で保健所に送付する仕組みだった。そのファイルの多くは——Excel方眼紙、あるいは紙のFAXだった。

保健所の職員は、受け取ったファイルやFAXを目視で確認し、手で別のシステムに入力し直した。医療機関も保健所も、夜を徹して作業した。それでも感染者数の集計は遅れた。報告のタイムラグは最大で数日に及んだ事例も報告されている。

デジタルで送られた情報が、人間の手を何度も経由して、ようやくデータになった。この光景は、2020年の日本が世界に発信した、最も雄弁な現状報告書だった。

「感染症サーベイランスにおける情報収集・集計の遅延は、適切な対策の立案を困難にした。各医療機関から保健所への届出が紙・FAX・機械非可読なファイルで行われていたことが、データ集約の深刻なボトルネックとなった。」
— 新型コロナウイルス感染症対策分科会「感染症サーベイランス体制の抜本的強化に向けて」(2021年10月)より要約

CH.07

Excelは悪くない——そして誰も悪くない

ここで、公平を期すために言わなければならないことがある。

Excelは悪くない。Excelは、設計通りに動いていた。「セルの幅と高さを変えられる」という機能を提供し、ユーザーがそれをどう使うかは、Excelの責任ではない。

では、誰が悪いのか。

誰も悪くない——というのが、最も正確な答えかもしれない。

上司は「これが正式な様式だ」と信じていた。部下は「様式を変える権限がない」と知っていた。取引先は「うちも同じフォーマットで送ってきたから」と思っていた。行政は「市民が使い慣れているから」と配慮していた。

全員が合理的に行動した結果、全体として非合理な状態が固定された。

これを社会科学では「調整問題(coordination problem)」と呼ぶ。誰か一人が変われば全員が変われるのに、最初の一人になるコストを誰も払わないため、悪い均衡が維持される現象だ。渋滞、環境問題、年功序列の維持——いずれも同じ構造を持つ。

Excel方眼紙もその一つだ。技術的解決策はとっくに存在する。標準的なCSV形式、Googleフォーム、専用の電子申請システム——選択肢は枚挙にいとまがない。

しかし「みんなが変わらないから、私も変わらない」という均衡が、30年間維持されてきたのだ。


かくして王国は今日も稼働している。
全国どこかのオフィスで、誰かが列幅を細かく設定し、
行高さも揃え、
セルを結合し、罫線を引き、
「きれいになった」と満足している。
その隣では、若いエンジニアが
そのファイルを開き、
何もできないと気づき、
静かに目を閉じる。
Excelは今日も、表計算ソフトとして起動し、
方眼紙として使われ、
誰も疑わない。
――儀式 完了

参考・引用資料
デジタル庁「デジタル社会推進標準ガイドライン」(2022年)
IPA(情報処理推進機構)「DX白書2023」
新型コロナウイルス感染症対策分科会「感染症サーベイランス体制の抜本的強化に向けて」(2021年10月)