Internet Explorer依存王国の興亡
情報処理王国史 外典第三巻

Internet Explorer依存王国の興亡

2022年6月15日、神は死んだ。しかし王国は続いた

LEGACY IE
この記事について
本記事は実際の技術的・社会的背景に基づいたブラックコメディ仕立ての読み物です。引用・参照はすべて実在の文献・発言・報道に基づきますが、語り口はフィクション的表現を含みます。
CH.01

覇者の誕生——1995年の征服

1995年8月。Microsoftは「Internet Explorer 1.0」をひっそりとリリースした。

当時の覇者はNetscape Navigatorだった。
Netscapeはすでにブラウザ市場の大半を支配し、株式公開で歴史的な成功を収め、「インターネット時代の新たな帝国」として君臨していた。
誰もが思っていた——このまま、Netscapeが世界を制するだろうと。

しかしMicrosoftは、古典的な方法で対抗した。
WindowsにIEを無料でバンドルしたのだ。

パソコンを買えば、Windowsが入っている。
Windowsを開けば、IEが入っている。
「無料のブラウザがすでにある」なら、わざわざNetscapeをダウンロードする必要はない。
こうして「ブラウザ戦争(Browser War)」は、ほぼ一方的な殲滅戦として幕を閉じた。

2002年頃、IEの世界市場シェアは95%前後に達した。
これは独占ではなく、ほぼ完全な支配だった。

日本においても同様だった。
いや、日本においては——少し違う何かが起きていた。

【用語解説】ActiveX(アクティブエックス)
MicrosoftがIE向けに開発した技術で、Webブラウザ上でWindowsのプログラムを動かすことができる仕組み。
「ブラウザ上で電子証明書を使った認証を行う」「オンラインバンキングの本人確認プログラムを動かす」などに活用された。
しかしIE専用技術であり、他のブラウザでは動作しない。
セキュリティ上の脆弱性が多数報告されたが、一度使い始めたシステムは簡単に変更できなかった。

CH.02

日本だけ見えなかった「終わりの始まり」

2004年、Mozillaから「Firefox」が登場した。
2008年、Googleから「Chrome」が登場した。
世界は徐々に、しかし確実にIEから離れ始めた。

Firefoxは2010年前後に世界シェア約25~27%まで拡大した(StatCounter調べ)。
Chromeは2012年に世界シェアでIEを抜いてトップに立った。
2015年には、Microsoftが新ブラウザ「Edge」を発表し、「IEの後継」として推進し始めた。

これは実質的に、Microsoft自身がIEに「引退勧告」を出したに等しかった。

しかし日本では——景色が違った。

2015年当時、日本の企業・行政システムの多くはまだIEを前提として動いていた。
ログイン画面に「推奨ブラウザ:Internet Explorer 11」と書かれていた。
「ChromeまたはFirefoxでのご利用はサポート外です」という文言が、大手銀行のサイトに平然と掲示されていた。
役所の電子申請システムは「IEでのみ正常に動作します」と書かれていた。

なぜか。
ActiveXを使って作られたシステムが、全国に無数に存在したからだ。

1990年代後半から2000年代にかけて、日本の企業・行政は競ってWebシステムを構築した。
当時のトレンドはActiveXだった。
ブラウザの上でWindowsの機能が使える——夢のような技術に見えた。
IEが95%のシェアを持つ時代に、「IE専用でいい」という判断は合理的だった。

その合理的な選択が、20年後に巨大な負債となって返ってくることを、誰も想像しなかった。


CH.03

長き治世——「IEじゃないと動かない」という呪縛

2010年代。世界でIEは急速に忘れられていった。

しかし日本のオフィスでは、こんな会話が繰り返された。

「この画面、Chromeで開いたら動かないんですけど」
「あ、IEじゃないとダメなんですよ、それ」
「……IEって、まだあるんですか?」
「あります。タスクバーの端の方に」

企業の情報システム部門は、社員の新しいパソコンにも律儀にIEのショートカットを設置した。
「Chromeは使わないでください、セキュリティポリシー上」と言いながら、
実際の理由は「IEでしか動かない社内システムがあるから」だった。

銀行のオンラインバンキング、役所の電子申請、大学の学務システム、病院の診療予約、保険会社の代理店向けポータル、証券会社の取引システム——
これらのシステムが、軒並みIE専用・ActiveX依存で作られていた。

これを「作り替える」には、莫大な時間と費用がかかる。
何より、「今動いているシステムを変えて、もし壊れたら誰が責任を取るのか?」という問いに、誰も答えられなかった。

動いているものには触るな。 この鉄則が、腐敗しかけた建物を保存し続けた。

「多くの企業システムがレガシー化し、複雑化・ブラックボックス化している。このレガシーシステムへの依存により、デジタル変革に向けたシステム刷新が阻害されている。こうした状況が放置されれば、2025年以降、最大12兆円/年の経済損失が生じる可能性がある(『2025年の崖』)。」
— 経済産業省「DXレポート」(2018年9月)より要約
【用語解説】技術的負債(Technical Debt)
短期的に便利な技術的選択が、長期的にシステムの維持・更新を困難にする問題のこと。
「とりあえず動けばいい」で作られたシステムが、後になって改修に莫大なコストを要する状態を指す。
IEへの依存は、日本における技術的負債の代表事例として、IT業界の教科書的存在となった。

CH.04

Microsoftによる「我が子への終活宣告」

2021年5月。Microsoftは正式に発表した。

「Internet Explorer 11を2022年6月15日をもってサポート終了する」

世界のIT業界は、静かにうなずいた。「ついに来たか」と。

しかし日本のIT担当者の間には、ひときわ深い沈黙が流れた。
それは「ついに来たか」ではなく——「え、どうする……?」という沈黙だった。

Microsoftは優しかった(あるいは日本市場への配慮があった)。
後継ブラウザ「Edge」に「IEモード」という機能を組み込んだ。
これは「EdgeブラウザでIEと同じようにページを表示できる互換モード」であり、
ActiveXも(ほぼ)動く。IE専用システムも(ほぼ)動く。

IT担当者たちは安堵した。「IEモードがある。まだ大丈夫だ」と。

しかしMicrosoftは補足した——「IEモードのサポートは2029年まで」と。
つまり、「猶予をやった。でも2029年には終わる。本当に変えてください」というメッセージだ。

日本は猶予期間を受け取り、その多くが2026年現在も活用中である。

「IE11のサポート終了後、多くの組織がMicrosoft EdgeのIEモードで既存システムを運用し続けている。IEモードのサポートは少なくとも2029年まで提供される予定だが、IEモードへの依存もまた新たなレガシー問題となりつつある。」
— Microsoft「Internet Explorer の廃止と Microsoft Edge の今後について」(2021年5月公表)より要約

CH.05

王国の年代記

1995年8月 Internet Explorer 1.0リリース。Windows 95へのバンドルによりシェア拡大開始
1999年頃 IEの世界シェアが80%を超える。日本でも「ブラウザ=IE」の認識が定着
2000年代 日本の企業・行政がActiveXを多用したWebシステムを大量に構築。「IE専用」が事実上の標準に
2004年11月 Firefox登場。世界的なIE離れが始まるが、日本の企業システムは変わらず
2008年9月 Google Chrome登場。海外でのIEシェア急落が始まる
2012年 ChromeがIEを抜いて世界シェア1位に(StatCounter)。日本との差は広がる一方
2015年 Microsoft、新ブラウザ「Edge」発表。IEの実質的な後退が始まる
2018年9月 経済産業省「DXレポート」がレガシーシステム問題を「2025年の崖」として警告。IE依存が代表事例
2021年5月 Microsoft、2022年6月15日のIE11サポート終了を正式発表
2022年6月15日 Internet Explorer 11、サポート終了。Edgeの「IEモード」が引き継ぎ役として残る
2022年~ 地方銀行・地方自治体・医療機関で「IEが使えなくなった」混乱が各地で発生
2029年(予定) EdgeのIEモードもサポート終了予定。日本の多くの組織が「本当のXデー」と認識

CH.06

あの日、何が起きたか——2022年6月15日の記録

2022年6月15日は、「IEの命日」として語られる。

その日、日本各地のオフィスで、こんなことが起きた。

あるシステムのログイン画面に、見慣れないエラーが出た。
「このブラウザはサポートされていません」。
IEを開こうとしたが——IEのアイコンは消えていた。
Edgeを開くと、IEモードで開く設定が必要だと表示された。
IT担当者は午前中の大半を、社内のPCをIEモードに設定する作業に費やした。

ある地方では、窓口端末がIEに依存していたシステムが、
6月15日の朝から正常に動作しなくなった。
急遽、紙の手続きに切り替える対応が取られた。
「デジタル化したシステムが止まったので、紙に戻した」——これ以上の皮肉はない。

ある自治体では、「IE終了後も引き続きIEが必要なシステムの利用者には、個別に対応する」とホームページに掲載した。
その「個別対応」の内容は——「EdgeをIEモードで使う設定を窓口でお手伝いします」だった。

つまり、IEが終わっても、IEは終わっていなかった。
名前だけが「Edge」に変わり、中身はIEのまま、2029年を待ちながら動き続けている。

「2022年6月15日のIE11サポート終了後も、多くの自治体・金融機関・医療機関でIEモードを使った継続運用が行われている。根本的なシステム刷新には数年単位の期間と相当の予算が必要であり、2029年のIEモード終了が実質的な最終期限として意識されるようになっている。」
— 総務省および各自治体の調査報告(2023年)より要約

CH.07

なぜ日本だけ、こんなに長かったのか

世界のIE平均シェアが数%を下回っても、日本では20%前後を維持し続けた時期がある。

この「日本だけ違う」現象の背景には、技術的な問題以外の何かがある。

一つは調達制度だ。
日本の大企業・行政のシステム発注は、「仕様書通りに作ること」が最優先される。
「IEで動くこと」と仕様書に書いてあれば、ベンダーはIEで動くシステムを作る。
5年後・10年後にIEが廃れることへの考慮は、仕様書に書いていなければ含まれない。
責任の範囲は仕様書の範囲——この文化が、技術的負債を量産した。

もう一つは保守契約だ。
「動いているシステムを変えたら、既存の保守契約が無効になる可能性がある」
「変更に際してバグが出たら、誰が責任を取るのか」
こうした問いが、担当者の手を縛り続けた。

そして最大の理由は——変えなくても、今日は困らないからだ。

レガシーシステムの問題は、今日ではなく、数年後に噴出する。
その時にはすでに、担当者は異動している。
この「先送りと異動」の組み合わせが、20年分の技術的負債を積み上げた。

「レガシーシステムが残存している主な理由として、予算不足・人材不足に加え、『現行システムへの依存度が高く移行リスクが大きい』という回答が企業調査で最多を占めている。変えることへの組織的リスク回避が、変革の最大の障壁となっている。」
— 経済産業省「DXレポート2.2」(2022年7月)より要約

あるITエンジニアが語った。
「最初は怒っていました。こんな時代遅れのシステムを——と。
でも今は、なんか愛おしくなってきましたよ、IEって。
死んでも死ねない妖怪みたいで」
IEは2022年6月15日に公式に死んだ。
しかしEdgeのIEモードとして、今日も日本のどこかで生きている。
2029年まで、静かに、動き続ける。
ブラウザが起動するたびに、
日本のどこかのシステムは、
ひっそりと過去の自分に繋がっている。
——接続 維持

参考・引用資料
経済産業省「DXレポート」(2018年9月)
経済産業省「DXレポート2.2」(2022年7月)
Microsoft「Internet Explorer の廃止と Microsoft Edge の今後について」(2021年5月公表)
StatCounter「Browser Market Share」